国際腎臓学会は2018年、腎臓病の有病者数は世界で8億5,000万人に増えていると発表しました。これは世界の糖尿有病者数である4億6,300万人と比べると2倍と非常に多いことがわかるかと思います。しかし、その腎臓病がどういったものか、その課題や深刻度については十分に一般消費者には伝えられていないのではないでしょうか。
腎臓は尿を生成し老廃物を排出したり、血圧を調整したり、体液やイオンバランスを調整したり、血液や骨を作る役割がある非常に重要な臓器の一つです。腎臓病は、急激に腎機能が悪化する急性腎障害(acute kidney injury: AKI)とゆっくりと腎機能が悪化する慢性腎臓病 (chronic kidney disease: CKD)の2つに大別されます。AKIは、その原因の一つに感染症があり、今回の新型コロナウイルス感染症の重篤患者の中にはAKIを発症する患者が見られています。治療により腎機能が回復する可能性のあるAKIと比べて、CKDで一度失われた腎機能は回復しません。CKDは早期に発見し治療することで進行を抑えられますが、自覚症状が少なく非常に気付きづらいことから「Silent Killer」や「Silent Problem」と表現されます。
腎機能が正常の30%以下に低下した状態である腎不全が進行すると、体内の老廃物を十分排泄できなくなります。そのまま放置すると死に至るため、腎移植や血液透析、腹膜透析といった腎代替療法が必要になります。血液透析は週に3回通院し、1回あたり4時間の透析が必要です。通院のための生活ヘの負担だけでなく、心臓などの循環動態への負荷といった身体的な負担もあります。一方、血液透析とは異なる、患者自身の腹膜を透析膜として自宅でも実施が可能な腹膜透析という方法もあります。血液透析と比べて、通院回数が少なく循環動態ヘの負担が少ないというメリットがありますが、患者自身やその家族で行う負担や、長期間にわたって腹膜を使用することで腹膜炎や被嚢性腹膜硬化症といった合併症のリスクもあります。腎移植は長期的に見ると透析よりも医療費が安く、患者の生活の負担が軽減できるというメリットがあります。しかし最大の課題は、生体腎移植でも献腎移植であっても、腎提供者なしでは成立しないということです。
腎疾患領域の既存ビジネスと課題
高額な透析費用は、それだけ大きな市場規模があるとも考えられます。そのため、医療機関だけではなく、投資家や事業会社も血液透析センター投資を活発に行ってきました。1979年に創業した透析センターを展開する米民間企業DaVitaは、20万人以上の患者にサービスを提供し、米国の透析市場で37%の市場シェアを有しています。米国においてはPEファンドが透析関連の事業者に大きく投資したりといったことがあります。その他国内でも、大手美容外科クリニックが既存の血液透析センターを買収(2020年5月に閉院)する事例や、日本の商社が中国で血液透析センターを設立・運営する事例があります。また、今年7月には透析関連機器メーカーのニプロがインドの透析センターを買収しています。
透析センタービジネスも非常に重要ですが、財政負担と患者負担を考えると、透析だけではなく移植や予防医療の促進が求められます。アメリカにおいては2019年7月にトランプ大統領は腎臓の健康のための大統領令に署名し、腎臓移植へのアクセスの増加や人工腎臓の開発への投資の加速、在宅での透析の導入加速を促すことを明らかにしています。
また、新型コロナウイルス感染症の感染拡大も腎臓疾患のケアのあり方の変化を促しています。比較的初期に透析センターにおける感染事例が見られたことで、在宅透析の増加、およびCKD患者の予防的ケアが優先的に奨励されるようになりました。
腎疾患領域のスタートアップ
これらの動きを受けて、近年アメリカでは腎臓疾患患者を支援するスタートアップにも注目が集まっています。あくまで私の感覚にはなりますが、腎臓疾患領域は糖尿病やメンタルヘルスの領域などと比べるとスタートアップの数はかなり少ない認識ですが、大型調達する事例も出てきており、徐々に認知が高まっています。
①オンライン治療プラットフォーム
2015年に創業、これまでに総額2,770万ドルを調達しているCricket Healthは、CKDと末期腎疾患(ESRD)患者のために、腎臓学と透析治療を統合した専門の腎臓医療プロバイダーとして、オンライン上でサービスを提供しています。腎臓専門医、ソーシャルワーカー、栄養士、薬剤師、看護師で構成されるケアチームがオンラインで患者が適切な治療を選択できるよう支援し、データ分析を使用することで早期に無症状のハイリスク患者をスクリーニングし、腎不全への進行を遅らせ、患者の予防行動を支援しています。同社のビジネスモデルは2つあります。1つは健康保険を介してその被保険者にサービスを提供するモデルと、既存の医療機関向けにその治療を補完するサービスとして提供するモデルです。また最近では、腎臓疾患をより早期発見するために、機械学習による予測分析機能の開発に取り組んでいます。
2018年に創業したStrive Healthは、Cricket Healthと同様に健康保険や既存の医療機関向けに腎臓専門オンライン治療プラットフォームとしてサービスを提供しています。CKD患者やESRD患者に対し、プライマリケアの医師や腎臓専門医、および必要に応じてその他の専門家とオンライン診療やトレーニングプログラムを提供しています。データを集約することで高度な予測分析機能を提供し、早期発見や正確な進行の把握を行っています。直近では米国の大手民間健康保険のHumanaとの提携を発表し、同社の被保険者にサービスを提供しています。
②垂直統合モデル
2016年に創業し、これまでに1億ドル以上調達しているSomatusは、Cricket HealthやStrive Healthのようなテクノロジーアプローチに合わせて実店舗のケアセンターも運営しています。同社は2020年6月時点で、6つの州で2万人以上のCKDおよび末期腎疾患患者にサービスを提供しています。
同社は現在実店舗と併せて、臨床現場向けの予測や分析を可能にするテクノロジープラットフォームRenallQを開発し導入しています。これにより、臨床現場で医療従事者同士の連携を高め、効率化を図る他、パフォーマンス向上のためのインサイトを得られる仕組みになっています。今後はより在宅での療養を支援するために、訪問看護師などの訪問医療サービスとオンラインサービスを導入を計画しています。
③早期発見支援
2018年にMount Sinai Health Systemのスピンアウトとして創業したイギリスのRenalytixAIは、血中バイオマーカーや遺伝子情報、電子カルテデータから、腎臓疾患の100段階のリスク評価を行うアルゴリズムKidneyIntelXを提供しています。腎臓疾患を早期に発見できる他、腎臓移植患者の術後の管理に活用されます。同社の最大の強みは、既存の大手医療システムからのスピンアウトであることで、同医療機関の現場に早期に導入されたことや、300万人の患者データを活用でき精度を向上できたことでしょう。創業時の2,900万ドルの調達後でMount Sinai Health Systemは同社の19%の株を保有しています。同社は2018年11月にロンドン証券取引所AIM市場に上場、2020年7月にナスダックへの上場しました。2020年8月には腎臓疾患リスクの詳細な評価により精密医療(プレシジョンメディスン)戦略の構築を支援する取り組みとして、アストラゼネカとの提携を発表しました。腎疾患の高リスク患者を早期発見し治療を支援する取り組みを行うほか、同社の新薬開発における臨床試験に適合する患者の特定も行います。
自宅向けの早期発見支援ソリューションとしては、イスラエル発のHealthy.ioやアメリカのInuiHealth(前Scanadu)、Scanwell Healthがあります。2018年にこの3社がスマホベースの在宅尿検査技術でFDA承認を取得しました。今年に入り新型コロナウイルス感染症が米国内でも流行し始めた頃から、自宅での検査ニーズが高まり、Healthy.ioやScanwellは急速にサービスを成長させました。Healthy.ioは6月に競合であるInui Healthを900万ドルで買収しており、Scanwellはオンライン診療サービスのLemonaid Healthと提携し新型コロナウイルスの在宅抗体検査の開始を発表しています(Scanwellは春に発表後、FDA認可取得の必要がありいまだサービスの提供は開始していない)。オンライン診療サービスが成長するとともに、自宅で検査できるソリューションへの需要も今後も伸びが期待できるでしょう。
④透析技術の向上
先月ナスダックに上場したOutset Medicalは電源と水道水で機能する血液透析システムを提供しています。タブレットで操作でき、クラウドの電子カルテと連携します。在宅でも利用できるという点で、新型コロナで需要が増加しています。
イギリスのQuantaは、コンパクトな血液透析システムを開発しています。2008年の創業以来1億670万ドルを調達し、イギリスの国営医療サービス(NHS)での試験導入を行っています。新型コロナウイルスの感染拡大でイギリス国内の医療システムが圧迫されている中、6月にNHSの4つの医療機関のICUに、新型コロナウイルスの重症患者向けの透析システムとして同社のシステムを提供したことを明らかにしています。
シンガポールのAWAK Technologiesは、新しい吸着剤ベースの持ち運び可能な小型腎臓透析装置を開発しています。使用済み透析液から尿毒症毒素を除去し、使用済みの透析液をリアルタイムで再利用可能な透析液に再構成する吸着剤技術が組み込まれています。2019年12月には4,000万ドルを調達しています。
2018年以降も新たに、透析機器自体を開発する新興企業が立ち上がっています。在宅での透析を支援する新技術を開発するスタートアップのDialityが2018年に創業し総額1,800万ドルを調達して、家庭用の血液透析装置を開発しています。
日本における可能性
米国腎臓データシステムによれば、世界各国・地域で透析患者の有病率が最も高いのは台湾で、それに次ぐ第2位の日本は世界有数の透析大国ということになります。腎代替療法に占める腎臓移植の比率は、北米や欧州では40%以上であるのに対し、日本はわずか3%に過ぎません。透析と比べて生活の負担だけでなく、身体的な負担も軽減され、かつ医療費から見ても安価な腎臓移植ですが、実施数はまだまだ限られています。
1か月の透析治療の医療費は、患者一人につき外来血液透析では約40万円、腹膜透析では30~50万円程度が必要といわれています。日本全体の透析にかけている医療費は年間総額は1.57兆円とされており、日本の医療費の約4%を占めています。
腎臓疾患を予防し、生活の質を改善するニーズは非常に大きいことがわかります。現状日本で在宅の療養を支援するソリューションは少なく、まだまだ余地があると考えています。この領域での起業をご検討されている方は、ぜひご連絡ください。
Senior Associate @ Coral Capital