年商100億円を超えるような急成長企業を目指す日本の起業家にとって、新分野(プロダクト・市場)への進出は基本的に不可欠です。市場規模にもよりますが、そのスケールで急成長を維持できるプロダクトの数はごく一握りに限られるからです。そのため、事業拡大への道筋は一本道ではなく、うまくリソースを使っていく戦略の戦いと表現するほうが適切でしょう。
この戦略の要となるのは「タイミング」です。スタートアップ企業は通常、年商が10億円程度に達するあたりで、それまでの指数関数的な成長フェーズから徐々に横ばいになりはじめます。この減速の要因はいくつかあり、アーリーアダプター層の掘り起こしが済んだことによる場合もあれば、市場の飽和が原因となるケースもあるでしょう。いずれにしても、スタートアップ企業が上位25%の成長率を維持するためには、事業拡大の必要性に迫られるまで待つのではなく、そのずっと前から積極的に計画していかなければなりません。一般的なイメージと異なり、プロダクト・マーケット・フィット(PMF)はシードステージで一度達成したら終わりというものではないのです。どこよりも成功する企業というのは、新しい領域に進出するたびにPMFを模索・達成するというサイクルを常に繰り返しています。
こうした戦略を反映し、スタートアップ用語として近年広まっているのが「コンパウンドスタートアップ」です。コンパウンドスタートアップは、複数のポイント・ソリューションに同時に取り組み、相互運用可能な広範なプロダクト群を開発するビジネスのことです。例えば、同概念に基づいて起業家パーカー・コンラッドが立ち上げたスタートアップ「Rippling」は、人事やIT、財務をまたぐ統合プラットフォームを構築しています。また、日本での例としては「LayerX」が挙げられるでしょう。このようにシナジー効果が望める複数の領域に拡大するビジネスモデルで起業することを、個人的には全面的に応援していますが、一点留意が必要だと考えています。というのも、コンパウンドスタートアップ関連のアドバイスが実のところ、シリアルアントレプレナー(連続起業家)以外にはあまり意味がないという点が一般的に軽視されているようだからです。パーカーも、LayerXの創業者である福島氏もシリアルアントレプレナーです。だからこそ、異例のスピードで資金や人材を集めることができました。しかし、ほとんどのスタートアップにはそのようなリソースはないため、いつ、どこに進出するかをより現実的な視点で考える必要があります。彼らとはそもそもの前提が根本的に違うのです。
「普通の起業家」にとっては、優先順位付けや戦略的プランニングが非常に重要になります。そこで、新規事業のアイデアを検討するためのプロセスを明確化するツールとして、以下のシンプルなマトリックスを考案しました。縦軸はTAM(Total Addressable Market:実現可能な最大の市場規模)で、TAMが大きいほど潜在的な事業拡大余地が大きいことを示しています。横軸は「総合的な難易度」で、これは自分たちのスタートアップが特定の分野に進出することの難しさに影響するすべての要因を総合的に表しています。既存の強みや競争環境、事業のエグゼキューションの難しさなどが挙げられますが、「難しさ」に影響する要因は様々なものが考えられます。例えば資本集約度や規制対応の必要性、オペレーションの複雑さなども含まれるかもしれません。
左下のエリアはTAMが小さいものの、難易度が低いため多くのチームにとって魅力的に見えるでしょう。「すぐに結果を出せそうで良いのでは」と思われるかもしれません。この考え方は必ずしも間違っているわけではありませんが、いくつか注意点があります。まず、実際に新分野へ進出するとなると、最初に想定した以上の難しさに直面することが現実には多いということです。成功の保証がない中で経営陣の集中力が散漫になるなど、予想もしていなかった方向に影響が及ぶこともあるでしょう。次に、自分たちにとってエグゼキューションが難しくない分野は、他社にとってもそれほど難しくない可能性が高いという点も考慮しなければなりません(もちろん、例外もあります)。そのため、仮に事業の立ち上げに成功したとしても、他のプレーヤーが参入しはじめた時点でアップサイドが限定的、あるいは一時的なものになってしまう可能性があります。
対照的に、右上のエリアは大きなTAMと高い難易度が特徴で、参入するには勇気がいるでしょう。この組み合わせに該当する分野では、その高い参入障壁を乗り越えることさえできれば、独占的なシェアを獲得できる可能性があります。参入障壁がフィルターとして機能するため、それを通り抜けられるほんの一握りの企業は競争優位性を長期的に確保できる可能性があり、非常に穏やかな競争環境の中で成長できるかもしれません。
いずれの場合も、その分野において他社よりも上手くエグゼキューションできる独自のポジションにあるかどうかを分析することが鍵となるでしょう。
このマトリックスを戦略ツールとして活用する際には、各組み合わせのポテンシャルについてよく議論および検討することが非常に重要です。例えば、左下はすぐに結果が出せるという意味では合理的な選択かもしれませんが、一方で右上は多くの課題を伴うものの、長期的には大きなリターンが期待できます。進出を検討している分野のポテンャルをこのようにマッピングすることで、会社にとって最も有利な道を選ぶための建設的かつ戦略的な議論を引き出すことができるでしょう。
つまり、このマトリックスはあらかじめ道筋が用意されているロードマップなどではなく、戦略的思考やポイントを抑えた建設的な議論を促進するためのツールです。自分たちの独自のポジションや強みが何であるかを再検討し、目先のリターンだけでなく企業としての持続的な成長を見据えた上で、今後の事業拡大先を賢く選択できるように意図して作られています。
また、このマトリックスは、戦略的選択を視覚化および議論するための実用的なツールとして私が作成したものではありますが、偉大なる先人たちが築き上げてきた知恵があってこそです。より詳細で高度な分析を行うなら、マイケル・ポーターやハミルトン・W・ヘルマーの代表的な基本書が必読でしょう。競争戦略や価値創造の理解に対する彼らの貢献は計り知れず、このマトリックスのような単純なツールを補完する貴重な洞察を提供してくれるはずです。
Founding Partner & CEO @ Coral Capital