投資家にとって、スタートアップ株式をいつ売るかは避けて通れない問いです。成長への期待とリスク管理。この二つはしばしば緊張関係にあり、正解のない判断を迫られます。
この難しい判断を、投資家として初期から長く関わってきたスタートアップでどう下すのか──。SmartHR株の一部を146億円でGeneral Atlantic(GA)に売却したセカンダリー取引は、そのテーマを考えるうえで格好の題材になりました。
先日公開したYouTubeでは、日本のスタートアップ史上最大となったセカンダリー取引が、創業者・CFO・VCの視点からどのように判断され、どのように実行されたのかを明らかにしています。
SmartHRとの最初の出会いは、まだ日本で「SaaS」という言葉がほとんど聞かれなかった時期にさかのぼります。当時はプロダクトローンチ前で、創業者の宮田昇始さんがプレゼン資料だけを持って投資家に会っていた、本当に初期の段階でした。米国でSaaSが広がる中、「日本版Zenefitsを探すなら、ここに賭けるべきだ」という直感が芽生えたのを覚えています。
とはいえ、その頃のCoral(当時は500 Startups Japan)は実績のほとんどない1号ファンド。ファンドの30〜40%を1社に投じる“オールイン”は、LPに説明のつきにくい戦い方でした。そこで選んだのが、日本初の試みとして組成したSPV(Special Purpose Vehicle)です。特定の1社だけに資金を集めて投資できる仕組みです。
当時、宮田さんとのあいだにはこんなやりとりがありました。
「シリーズBを2カ月は動かないでください。資金は僕が代わりに集めます」
「バリュエーションは空欄で渡すので、宮田さんが決めてください」
常識的ではないアプローチですが、それほど確信が強かったということです。当時のARRは1億円前後。空欄のタームシートに宮田さんが書き込んだプレ時価総額は60億円──日本ではほとんど前例のない強気の数字でした。
この賭けは正解でしたが、賭けがここまでうまくいくと、別の問題が立ち上がります。ファーム全体に占めるSmartHRの比率が想定以上に大きくなり、その存在がポートフォリオ全体のリスク構造を左右し始めたのです。ここでテーマは「なぜ売るのか」ではなく、「集中した持分をどう設計するのか」へと移ります。
今回のセカンダリーを端的に言えば、「確信は残しながら、リスクだけを適切に下げるための判断」です。CoralとしてSmartHRの成長への確信は揺らいでいません。実際、売却後もSPVで保持していた持分の約半分を残しています。つまり、アップサイドを確保しつつ、ファーム全体のリスクを健全な水準に戻したという構造です。
スタートアップ投資は“買う一方”になりがちです。未上場のまま成長する企業が増えた今、「どこで・どれくらい売って流動性を確保するか」という設計は、ファンド運営における重要なテーマになりつつあります。
その前提に立ち、今回の取引では「上場前のセカンダリー」「IPO時の売却」「ロックアップ解除後の市場での売却」を最初から組み合わせて設計しました。売却タイミングをあらかじめ分散させることで、リスクと成長のバランスをより安定的にとる狙いがあります。
結果として、2017年に設立したSmartHR向けSPVでは、現時点で投資額の6倍以上をLPに還元しながら、大きな持分を維持することができています。流動性を確保しつつ、アップサイドも取りにいく──その両立を可能にするリクイディティ設計が成立したわけです。
今回のセカンダリーが象徴的なのは、「誰に売るか」が取引の本質だった点です。発行体であるSmartHRにはお金が入りません。だからこそ、「新たに株主として迎える相手」は極めて重要になります。CFOの森雄志さんが動画で語っていたように、良いキャップテーブル(株主構成)は長期的な成長の基盤です。
その意味で、買い手となったGAは最良のパートナーでした。Airbnb、Duolingoといった世界的リーダーだけでなく、GustoやHiBobなど、SmartHRと近い領域のHRテック企業にも投資してきた実績があります。ARR数百億円の企業を数千億円規模に伸ばすフェーズを何度も経験しているので、SmartHRが次のステージへ向かう際に、その知見は大きな力になることでしょう。
さらに特徴的だったのは、セカンダリーであるにもかかわらず、GAがフルスタックのデューデリジェンスを行った点です。事業、ユニットエコノミクス、Go To Market、リソース配分──森さんいわく「年に一度の健康診断」のようなプロセスで、SmartHRが自社の位置づけを再確認するきっかけにもなったそうです。
今回のセカンダリーには、もう一つ重要な側面があります。それは、「セカンダリーは後ろめたいもの」という空気を変える契機になり得ることです。
日本では長く、セカンダリーは“うまくいっていない会社がやむなく行うもの”という見方もありました。しかし今回は、SmartHRのような成長企業で、初期投資家が長期でコミットし続けたうえで行われた取引です。これは、セカンダリーの新しい標準をつくる出来事だと感じています。
5年後、10年後の日本の資本政策がどう変わっているかは、こうした事例が“例外”ではなく“当たり前”になるかどうかにかかっています。セカンダリーがネガティブなものではなく、「企業の成長を支えるための資本の入れ替え」として理解されるかどうか。今回のセカンダリー取引は、その方向への大きな一歩です。
YouTube本編では、交渉プロセスや株価の決まり方、株主調整のリアルなど、ここでは触れきれなかった実務の裏側を紹介しています。ぜひ、歴史的ディールの全貌をご覧ください。
