新しいAIの時代が幕を開け、いくつもの業界でゲームのルールが一から引き直されています。既存のSaaSプレイヤーが、自社の販路とリソースを活かして素早く変身を遂げるか、それとも製品をゼロから考え直す「AIネイティブ」なスタートアップに取って代わられるか。私たちは今、そのどちらかが起こる局面に入りつつあります。いずれにせよ、勢力の境界線は引き直されつつあるのです。
さらに、基盤モデルがもたらす新しい能力とインターフェースのおかげで、これまでデジタル化に消極的だった業界やユースケースにも、ついにソフトウェアが入り込み始めています。
この見立て自体に、特に目新しさはありません。こうした変化は、何年も前から進行してきました。私たちもこの流れに積極的に投資しており、日本ではLensやIVRy、米国ではMarqVisionやFactoryといった企業を支援しています。
しかし、米国でアプリケーション層のAIスタートアップが次々と立ち上がっている、その膨大な数を考えると、日本できわめて少ないことに、正直かなり驚いています。日本のこの市場には、実に多くのビジネスチャンスが残されています。この好機をつかもうとする起業家が、もっとずっと多くいてもいいはずです。
振り返れば、日本におけるSaaSの普及も、これとよく似た道をたどりました。私たちが投資を始めた2016年当時、「SaaS」という言葉すら、日本ではまだ広く知られていませんでした。そんな手探りの黎明期に、SmartHR、Kakehashi、Diniiをはじめとする多くの企業に投資できたことは、幸運でした。
私たちは、今回もまた歴史が繰り返されようとしているだけなのだと考えています。クラウドの波に乗ったスタートアップが日本で生まれるまでに時間がかかったのと同じように、AIアプリケーション層の企業が一斉に花開く「カンブリア爆発」も、すぐそこまで来ているはずだ、と。
そんな期待を込めて、日本の起業家にとって最も有望な「ホワイトスペース」(まだ誰も手をつけていない事業領域)がどこにあるのか、そして海外の投資家が日本のどこに目を向けるべきなのかを、ここで整理してみたいと思います。
① そもそも、アプリケーション層は生き残れるのか
基盤モデルが性能を高め、コストを下げていくなかで、アプリケーション層の企業に、そもそも意味はあるのでしょうか。それとも、モデルがその上にあるものをすべて飲み込んでしまうのでしょうか。
「SaaSは死んだ」と言えば、確かに注目を集めます。しかし、それと同時にAIのアプリケーション層に投資しているのなら、基盤モデルの上にもプレイヤーの居場所がある、と信じているはずです。かつて、クラウドのインフラ企業の上に、SaaSプレイヤーの居場所があったのと同じように。
私たちは、アプリケーション層も生き残ると考えています。ただし、いくつか重要な前提があります。
スイッチングコストは、SaaSの時代よりも低くなるでしょう。AIによって、膨大なデータや複雑なワークフローを簡単に移行できるようになるからです。とはいえ、利用者が増えるほどプラットフォームの価値が高まる「ネットワーク効果」は、依然として強力なモート(参入障壁)であり続けます。
それに加えて、スタートアップは次のような領域で参入障壁を築くことができます。
- 規制・コンプライアンス対応: 企業が外部に委ねたいのは、中核ではない業務だけではありません。それに伴う「責任」そのもの(会計、法務、コンプライアンス、セキュリティ、保険)を手放したいのです。
- バーティカルソフトウェア: 業種特化型ソフトウェア市場を汎用的な基盤モデルが侵食するのは、はるかに難しいでしょう。深い業界知識、ニッチな業務フローへの理解、そして複雑なレガシーシステムとの連携が求められるからです。
- ハードウェアと独自データ: 物理的な接点と、厳格に管理されて外部に出てこない独自データへのアクセスは、後発が切り崩すのが極めて困難です。
- オーケストレーション層: 企業は、自らの将来を自分たちで握りたいと考え、単一の基盤モデルに縛られることを避けようとします。複数のモデルにまたがってタスクとコストを束ね、振り分け、調整するオーケストレーション層には、大きな価値が積み上がっていきます(このオーケストレーション層を手がける米国のスタートアップFactoryに私たちが投資した背景も、まさにここにあります)。基盤モデルだけに頼ると高くつきますし、最先端の利用の多くは、今のところ各社が採算度外視で安く提供しているのが実情です。業界が実際に利益を出さなければならなくなれば、価格は上がります。そのとき、コストを抑えつつモデルへの依存を減らすレイヤーの価値も、それに伴って高まっていくはずです。
- 特化型モデル: スタートアップは、自社のモデルを使って、上記の一部を取り込むこともできます。業種特有の理解と独自データを活かすことで、汎用的な基盤モデルよりも優れた成果(効果と効率)を出せるのです。
② ローカル企業は、どこで勝てるのか
これは、日本の起業家にとって最も重要な問いです。なぜなら、その「本当の答え」が、以前とは変わってしまったからです。
SaaSの時代、私たちがローカルのプレイヤーに投資したのは、構造的あるいは規制上の理由から、ローカル企業に本当の優位性がある場合でした。SmartHR(日本版Rippling)がうまくいったのは、雇用法、行政のAPI、そして保険制度が、日本では全く米国と異なっているからです。Dinii(日本版Toast)は、日本で圧倒的に普及し、他のほとんどの国では使われていないメッセージアプリであるLINEを土台にしたプロダクトです。モートは、こうした地域ごとの違いにありました。
かつてのモートのうち、2つは今や弱まっています。
言語と文化のローカライズは、もはや事業を守ってはくれません。海外の企業であっても、あらゆる市場に向けて、製品の翻訳と文化的な最適化を瞬時に行えます。これが最も効いてくるのは、プロダクト主導(product-led)の企業です。営業担当者が介在しなくても、ユーザーが自分で登録して価値を得られるのなら、わざわざ日本のベンダーを必要とする理由は、ほとんどありません。セルフサーブ型(自己完結で導入・利用してもらう売り方)は、この国で最も外資との競争にさらされやすい売り方なのです。
セールス主導(sales-led)の企業は、まだ比較的守られていますが、競争が本格化するまでの猶予は、以前より短くなっています。この新しい波に乗る米国のAIスタートアップは、成長が非常に速く、高いバリュエーションがついています。そのため、前の世代よりもはるかに早い段階で、海外へ出ていきています。投資家がすでに織り込んでいる成長を維持するには、そうせざるを得ないからです。アジアの中で、日本は誰の目にも明らかな最初の進出先です。市場規模が大きく、きちんとお金を払う意思があり、アジアの多くの国と違ってオープンなビジネス環境が整っているからです。その結果、海外の競合企業が日本進出するタイミングも以前より格段に早くなっています。
ですから、日本の起業家は、どこか他の国や地域でうまくいっているものを模倣するだけでは、到底足りません。なぜローカル企業が、この日本で構造的に勝てるのかを、考え抜く必要があります。
とはいえ、まだ「勝ち筋」が残っている領域もあります。誰かが規制上のリスクを引き受けなければならない業務。独自のローカルデータ。現地のシステムやハードウェアへの深い組み込み。あるいは、グローバル企業がわざわざ素早くローカライズしようとは思わないほど、ニッチに絞り込まれた業種。これらのいずれにも当てはまらないなら、それは誰か他社の製品の上に「翻訳レイヤー」を載せているにすぎません。潤沢な資金を持つ海外勢が日本に参入してきたとき、それは非常に危うい立ち位置に立たされることになります。
LegalOnは、いまの日本で最もわかりやすい具体例です。同社は、弁護士が監修した日本の法務コンテンツの上に、AIによる契約レビューのプラットフォームを構築しました。これは、海外からの参入者が簡単には模倣できない、独自かつ規制に根ざしたデータです。そして同社は今や、日本の上場企業の30%以上に利用されていると報じられています。
③ AIの価値がいちばん早く現れるのは、どこか
勝てる理由があるなら、次に問うべきは「価値がいちばん早く現れるのは、どこか」です。業界を4つの象限に当てはめて考えてみましょう。横軸は人手不足の深刻さ。縦軸は、その仕事にかかっているコスト(単価)で、これは使える予算の大きさと、ROI(投資対効果)の見えやすさを示す目安になります。右上、つまり課題が深刻で、しかも仕事のコストが高い領域こそ、AIが最も速く導入され、最も早く対価を得られる領域です。
Andreessen Horowitz(a16z)は、これを別の角度から捉えています。AIが理論上どんな仕事ができるか、ではなく、実際にどこで導入されているか、という角度です。最初に置き換えが進む仕事は、テキストを中心とした反復的な作業で、人間が介在するヒューマン・イン・ザ・ループによって正確さが担保され、完了後の検証も容易なものです。逆に、置き換えが進みにくい仕事は、物理的な現実世界が関わるものや、高い信頼関係を要するもの、あるいは誰にも成果を検証できないものであることが多いです。このふるいを、先ほどの4象限と合わせて意識してみてください。
なお、日本で最も深刻な人手不足のいくつか、たとえば建設現場の職人・技術者、トラック運転手、対人介護といった分野は、ロボティクスや自動運転が取り組むべき課題であって、本稿が扱うアプリケーションソフトウェアの領域ではありません。とはいえ、もし物理世界の課題まで解決できるのなら、その伸びしろは桁違いに大きいものになるでしょう。
日本の人手不足は深刻です。パーソル総合研究所と中央大学の試算によれば、2035年には1日あたり384万人分に相当する労働力が不足し、これは2023年の1.85倍にあたります(パーソル)。人手不足を直接の原因とする倒産は、2025年度に過去最多の441件に達し、年間で初めて400件を超えました(帝国データバンク)。人手不足は、あらゆる業種に及んでいます。だからこそ日本では、縦軸よりも横軸のほうが効いてくるのです。

右上(人手不足が深刻 × 高コストの仕事)。最も有望な領域です。
- ソフトウェア・IT。「情報サービス」は、日本で一貫して最も人手不足が深刻な業種です。深刻なエンジニア不足を背景に、およそ3社に2社が人材を確保できないと答えています(帝国データバンク)。人件費が高く、需要は逼迫していて、しかも仕事そのものがソフトウェアです。AIのコーディングツールが世界的に大きく飛躍したのも、まさにこの領域でした。とはいえ、ここにはすでに、世界でも日本でも、多くのプレイヤーがひしめいています。
- 診療記録と医療バックオフィス。医療・福祉は、パーソルの2035年試算でも、最も深刻な打撃を受ける業種の一つです(パーソル)。その一部は人手そのものの不足であり、これはソフトウェアでは解決できません。しかし、コストの大きな部分を占めているのは、高給の臨床医や医療事務が、記録の作成、コーディング(診療内容のコード化)、問診の受付に何時間も費やしていることです。そして、まさにこの事務作業を肩代わりするのが、Abridgeのような「AIスクライブ」(音声から診療記録を自動作成するAI)です。Abridgeが米国の医療システムに急速に広がったのも、それが理由でした。
- 会計・監査・税務。高付加価値の財務の知識労働でありながら、その担い手である専門職は高齢化が進んでいます。書類と数字を大量に扱う業務で構成されており、ソフトウェアが得意とするところです。コストが高く、自動化が可能で、しかもROIを最も証明しやすい、デスクワークの典型です。
左上(高コストの仕事 × 人手不足はそこまで死活的ではない)。次に有望な領域です。
- 法務。専門職の時間は高単価ですが、日本はエンジニアや事務職のような形で、弁護士不足に直面しているわけではありません。ここでの原動力は、生き残りではなく、生産性です。世界での実例がHarveyであり、国内での実例がLegalOnです。
- コーポレートファイナンスとFP&A(財務計画・分析)。価値の高い分析業務であり、制約となっているのは極端な人員不足ではなく、スループット(処理量)です。
- コンサルティング、戦略、リサーチ部門。成果物は高価で、人材は確保でき、自動化による伸びしろも明確です。
右下(人手不足が深刻 × 低コストの仕事)。ここも有望ですが、収益化は難しめです。
- 事務・管理業務。パーソルは、事務職を日本で最大の職種別の人手不足と位置づけています(パーソル)。そしてこれは、ソフトウェアで最も置き換えやすい仕事でもあります。データ入力、スケジュール調整、請求書発行、各種フォームの記入。難点は、労働力が安いため、低い水準を相手に価格を設定することになる点です。それでも、その果実がなお大きくなりうることを示すのが、LayerXのバクラクです。2万社を超える企業のバックオフィスの経理業務を端から端まで自動化することで、2026年初頭までに同社のARR(年間経常収益)は100億円に到達しました(LayerX)。その設計思想こそが、すべてを物語っています。仕事を「楽にする」のではなく、「不要にする」こと。人間に残されるのは、確認と判断だけです。
- 顧客窓口のカスタマーサービス。コンタクトセンターや、電話・問い合わせの一次対応は、低賃金のまま慢性的な人手不足に陥っています。そしてこの仕事は、今やソフトウェアが得意とする領域の、ど真ん中にあります。
- 飲食・小売のオペレーション。予約、問い合わせ、注文、商品情報の掲載は、いずれも自動化できます。しかし、飲食店の営業利益率はおよそ2%で、ソフトウェアに支払う余地は、ほとんど残されていません。課題は切実ですが、予算は限られています。
④ ビタミン剤より、鎮痛剤が先に売れる
もう一つ考えるべきは、自社の製品が「鎮痛剤(ペインキラー)」なのか、それとも「ビタミン剤」なのか、ということです。効率を改善するのは、ビタミン剤です。顧客が今まさに自力では解決できない問題を解決するのが、鎮痛剤です。鎮痛剤のほうが、先に、そしてより多くの対価を得られます。
そして、鎮痛剤のさらに先に、目指す価値のある段階があります。最も価値の高いバーティカルAIは、人間のチームには到底できない仕事をこなすようなものです。多くの場合、その理由は「規模」です。住宅サービス事業者向けに展開する米国企業Neticは、あらゆる電話とメッセージに、着信したその瞬間、何時であっても応答する、自律型の収益エンジンを動かしています。猛暑によって需要が1日のうちに急増しても、それを支えきります。24時間体制で、着信したまさにその瞬間に需要をさばける人員配置など、現実的には不可能です。
私たちの投資先であるIVRyも、もう一つのわかりやすい実例です。同社は電話対応を自動化していますが、その出発点は大企業ではなく、中小事業者でした。手持ちのスタッフではどうしても電話に出られなかった、クリニック、飲食店、小規模事業者です。そこで提供した価値は、「もっと効率的に」ではありません。「そもそも対応できるようになる」ことだったのです。月額3,000円の製品から始まったこのサービスは、いまや全47都道府県、90を超える業種で使われるまでに成長し、累計で100億円超を調達しています。
市場の頂点は、まだ空席だ
少子高齢化に伴う人口減少で、人手不足が経済全体に及ぶ切迫した現実となった日本では、意味のあるAIアプリケーションを生み出す機会が、数多く転がっています。
もちろん、TAM(Total Addressable Market、獲得可能な最大市場規模)が、ベンチャーの規模に見合うだけの大きさを持っている必要はあります。しかし、特定の業種に潜む切実な課題を見抜き、日本ならではの構造的な機微を活かし、本物の「鎮痛剤」を生み出せる起業家にとって、国内市場はいまだ大きく開かれているように感じられます。
あなたが今つくっているもの、あるいはつくろうと考えているものを、ぜひ聞かせてください。お話ししましょう。
