スタートアップ界では「GRIT(グリット)」という言葉があまりにもよく使われるため、もはや業界の信仰のようになっている節があります。この言葉が広まるきっかけとなったベストセラー本『GRIT』では、「グリット(やり抜く力)」こそが成功の秘訣であると主張しています。実際、多くの起業家がこの本を読み、逆境の中でも進み続けるためのインスピレーションにしたことがあるのではないでしょうか。
グリットは確かに長期的に見れば成功に欠かせない要素でしょう。しかし、グリットを持つべき場面とそうではない場面を見極めることも同じくらい重要であると私は思います。例えば、失敗に終わることが明らかな道を最後まで「やり抜く」ことにはなんの意味も名誉もありません。ですので、個人的には最近出版されたAnnie Duke著の『Quit: The Power of Knowing When to Walk Away(Quit:やめどきを知る力)』も非常に参考になると思いました。
同書では「やめられない心理」を作り出す、誰もが持っている認知バイアスについて解説しています。エベレスト登山家や優秀なアスリート、トップ企業の創業者、著名芸能人などの実例をもとに、成功には実は「やめる力」が不可欠なのだと著者は主張しています。失敗に終わるとわかっていることをやめるのは恥ではなく、むしろ関わる人全員にとって最良の選択なのです。一方で、「サンクコスト効果」や「授かり効果」、「現状維持バイアス」などの不要なバイアスが邪魔をして、合理的に判断できなくなることがあります。それを避け、より良い判断を引き出すための実践的な対策や戦略、メンタルモデルについても同書では紹介しています。
他にも参考になる体験談や、意思決定に役立つツールやテクニックなどが豊富に紹介されていますが、個人的には第9章の内容が特に刺さりました。第9章では伝説のエンジェル投資家として知られるRon Conway氏について紹介されています。彼の投資実績にはFacebookやGoogle、PayPal、Dropbox、Airbnb、Pinterest、Twitter、Snapchatなどのトップ企業が連なり、これ以上はないというポートフォリオです。これを見れば、「きっと彼の手腕で起業家を成功に導いたのだろう」と思われるかもしれませんが、事実はむしろ逆です。起業家が「やめどき」を見極めるのを手伝えたことが自分にとって最大の貢献だったと、Conway氏は語っているのです。
同書にも書かれているように、「人生は短い」というシンプルな哲学にConway氏の人生観は集約されています。
誰もが人生の時間は限られていて、その中でやり遂げられることも数えるほどしかありません。企業を立ち上げ、運営し、成長させるために起業家は非常に多くの労力を注ぎ込み、わずかな報酬で長時間労働を続けるなど過酷な日々も経験します。それは成功しているスタートアップであっても例外ではありません。そして浮き沈みの激しい不安定なスタートアップで奮闘するその1日1日が、自身の機会費用の損失になっているのも事実です。実際、起業家のほとんどは極めて優秀かつ意欲的な人材であるため、もっと少ない労働時間で今より多い報酬をオファーする企業はいくらでもあるでしょう。もちろん、自らの力で世界を変えたり、成功すれば大きな経済的リターンが期待できるというやりがいがあれば、どんな苦労も惜しくないかもしれません。しかし、失敗に終わる可能性が高いとある程度目処がついた段階で、新たな道に進む決心をするのも、けして恥ずべきことではありません。
とはいえ、口で言うのは簡単でも、実際に決断を下すのは難しいことでしょう。「やめる決断」の前にはいくつもの心理的な障壁が立ちはだかります。スタートアップを自身のアイデンティティーそのもののように感じている起業家もいるでしょう。何年も取り組み続け、時間もお金も注ぎ込んで育ててきた大切な会社なのです。周りからの評価も気になるでしょう。やめたら社員たちはどう思うか、 出資してくれた投資家はどう思うかなど様々な懸念が躊躇させるかもしれません。
または、社員に対する責任感から「やめるなんて考えられない」と思われるかもしれません。会社をたためば、これまで会社のために私生活を犠牲にしながら時間や労力を費やし、ともに戦ってきたチームメンバーたちが職を失うことになります。しかしConway氏が指摘するように、人生は短いのです。それは社員たちも同じです。スタートアップに入る社員は大抵の場合、給料が低い代わりに将来的に桁違いの価値に上昇するかもしれない自社株が与えられます。世界にインパクトを与えるというやりがいや、成功すれば大きなリターンが得られるという期待があるからこそ、社員たちはこのトレードオフを受け入れているのです。先がないスタートアップで働き続けることは、その優秀な社員たちにとっても機会損失でしかありません。Conway氏が「スタートアップに縛られる起業家」を見たくないように、起業家も「スタートアップに縛られる社員」を見たくないと思っていいのです。
成功するはずがないと直感的にわかっていても、投資家のために最後まで頑張り続ける義務を感じることもあるかもしれません。事業を断念し、残った資金を出資者に返す、もしくは最小限の利益で会社を売却するなどの決断を下したら、投資家からの評価が下がるのではないかと恐れてしまうのです。見損なったと思われ、もう2度と出資してくれないのでないかと心配になるかもしれません。
しかし、こうした懸念とは裏腹に、投資家は実際は違った見方をしていることも多いのです。先がないスタートアップに出資金を使い切られるのは、投資家にとってもデメリットでしかありません。ですが一部でも返ってくれば、状況をよく理解し、たとえ難しい決断でも堅実で正しい道が選べる起業家だと評価されるでしょう。それができるのは、会社の期待値に対する理解力や、環境変化への対応力が高い証拠でもあります。
実際、それらの能力は投資家から高く評価されます。今後も機会があればまた協力したいと印象付けられる可能性も上がるでしょう。Conway氏も、資金を返すことは将来的な出資の可能性をむしろ上げると強調しています。
私自身もConway氏の意見におおむね同意します。アメリカ人的な考えなのかもしれませんが、起業家も社員たちも、先がないとわかっている状況でスタートアップならではの「ハードシングス」を続ける必要は全くないと考えています。それよりも、その時間をもっと実りのある取り組みに使うべきです。
スタートアップの成功にグリットが不可欠なのは疑いようがありません。大変だからとすぐ音を上げてしまうようでは、成功を掴めるはずがないのです。しかし、事業が思っていたようにうまくいかないときには、「知的誠実さ」をもって対処したほうが全員のためになるでしょう。Annie Dukeの本では、その具体的な方法の1つとして「打ち切り基準」を決めておくことを勧めています。例えば、プロジェクトを打ち切ったり、これまでの考えを変えたり、不採算事業に見切りつけるための判断基準のことです。認知バイアスを排除して合理的にその都度判断できるように、自分のビジネスならどのような基準やタイムスパンで考えるべきか決めておくと良いでしょう。
自らの状況と重ねながら、この記事を読んでいる起業家もいらっしゃるかもしれません。そんな方にCoralが伝えたいのは、事業が期待通りに進まない場合があることを私たちはよく理解しているということです。そもそもVCというビジネスは、将来的に並外れたリターンを生み出す一握りのスタートアップを見つけるために、リスクが高いことを承知で投資しているのです。残念ながら突き抜けた結果は望めないとわかったスタートアップとは、その考えを率直に共有するようにしています。そして、結果的に売却や解散が終着点であったとしても、全員にとって最善となる結論を一緒に探します。
売却した場合、Coralが期待していたような巨大なリターンは得られないかもしれません。しかし、起業家や社員たちの何年にもわたる努力に対し、ある程度の見返りとなる報酬を用意することができます。また、少なくともイグジットまでやり切ったという実績や、それぞれが新しい道に挑戦できるようになるなどの良い面もあります。M&Aが現実的な選択肢ではない場合、Coralの投資先企業の中から起業家や社員たちの新たなキャリアパスを探すこともできます。必ずなにか良い道が見つかるはずです。そして人生の時間や労力を、より有意義な目標のために使えるようになるでしょう。
Founding Partner & CEO @ Coral Capital