本記事は豊田菜保子さんによる寄稿です。豊田さんは、楽天をはじめ、国内外の企業で人材育成やダイバーシティ推進を専門としてきました。現在は、スタートアップや起業家人材の支援プログラムを主に自治体と協力して企画・運営する傍ら、スタートアップやテック企業向けに「人」「チーム」「コミュニケーション」に注目した研修やアドバイザリーを提供しています。
事業持続性に関わるCEOの重要スキル
スタートアップ起業家は、事業のため、顧客のため、投資家のため、そして何より家族やチームメンバーのために毎日戦っています。次々と生じる課題から逃げず、「やるべきこと」が山積みでも優先順位をつけて日々取り組んでいます。ところが、絶対的な最優先事項にも関わらず、常に後回しにされがちな課題ーー、それが「メンタルヘルス(精神面の健康)」です。
メンタルヘルスの不調は、決して“もろい”人たちだけに起こる問題ではなく、一流の起業家であっても普通に経験することです。連続起業家でVCを立ち上げた家入一真氏は対談で「VCとしてやりたいと考えているのが起業家のメンタルケアです。この問題は、日本のスタートアップ界隈で置いてけぼりにされ続けてきた話題だと思っているんです」と語っています。また、SmartHR社長の宮田昇始氏は、心をケアする重要性をブログで次のように伝えています。
「イチロー選手でも不安で弱気になったり、眠れない日があるそうです。我々のような凡人がメンタルに問題を抱える可能性は高いでしょう。
であれば、問題に備える必要があり、問題を抱えてしまったら克服する必要があります。それが社員や株主などのステークホルダーに対する責任の一つにも感じます。
『情熱』や『ビジョン』といったもので打破できる人もいるかもしれませんが、根性論だけではいずれ心が折れる日が来るでしょう。(個人の見解です)
心の問題に対して『備える技術』『克服する技術』を起業家自身が身につけることは、会社を持続させるためにも重要だと思っています。」
一緒に働くメンバーにとっても大切なテーマ
メンタルヘルスは起業家だけの問題ではなく、スタートアップで働くメンバーにとっても大切なテーマです。経営者やマネージャーであれば、チームのメンバーから相談を受けたり、それが原因で優秀な人材が辞めてしまって困ったり、といった経験をした方も多いのではないでしょうか。個々のメンバーの影響力が大きく、一般企業に比べて属人的な仕事が多いスタートアップでは、誰かが抜けてしまうと事業やオペレーションの崩壊にもつながりかねません。
スタートアップ社員がメンタルヘルスを特に重視すべき理由は、ハルモニアがメンタルヘルスケア休暇を導入したことを取り上げたCoralブログ記事で、CEO松村氏が語った次の言葉に凝縮されています。
「ハルモニアでは個人の裁量と自由な働き方を重視し、休むことも働くことも自分の意思で柔軟に選択できるようにしてきました。一方で、真面目で責任感の強い人が集まっており、ついつい頑張りすぎてしまう環境と言えるかもしれません」
さらに、スタートアップに入社する人材の多くは、一般企業に勤めていたときの経験から「自分は普通の人よりメンタルが強い」「ストレス耐性が高い」というアイデンティティ(自己認識)を持っています。これを自身の「強み」と捉えていると、心の調子が崩れかけたときにそんな自分を受け入れられず、対処が遅れるリスクがあります。
※参考:Coral出資先のSmartHRグループでは従業員がメンタル不調になる前にサポートするオンラインカウンセリングの「Smart相談室」サービスを提供しています。
今こそ、メンタルヘルス・リテラシーをアップデートしよう
メンタルヘルスには、(1)精神疾患(=脳の器質的変化あるいは機能的障害)と、(2)ウェルビーイング(=主観的に精神が満たされた状態)という2つの要素があります。この認識が部分的で、メンタルヘルス=精神疾患と捉えていると「虚しさを感じるけど、病気と診断されるほどじゃないから大丈夫」とウェルビーイングやQOLの課題を軽視しがちですし、逆に精神疾患に対する認識が不足していて、メンタルヘルスを「ストレス発散すればOK」程度に考えていると、自身やメンバーが精神疾患を疑われる場合に適切なサポートができません。
日本だけでなく、世界中でスタートアップ関係者のメンタルヘルスについて懸念が広がっている昨今、起業家、働くメンバー、そして関係者を含む業界全体が、このテーマをタブー視する風潮をアップデートする必要に迫られています。
では、世界のトップ起業家/投資家、研究者、支援組織などは、実際にどんな提案や動きを見せているのでしょうか。いくつか例を見ていきましょう。
(1)起業家のメンタルヘルス研究第一人者が推奨すること
カリフォルニア大学サンフランシスコ校のMichael Freeman博士の研究は、起業家のメンタルヘルスに関して次のようなデータを提示しています。
創業者は:
- うつ病になる確率が「2倍」
- ADHD(注意欠如・多動症)を持つ確率が「6倍」
- 依存症になる確率が「3倍」高い
- 双極性障害になる確率が「10倍」高い
- 精神科に入院する可能性が「2倍」高い
- 自殺願望を持つ人の割合が「2倍」多い
同博士がTechCrunch記事で提案した5つのメンタルヘルス維持方法は下記の通りです。今までメンタルヘルスを軽視していて何から始めていいかわからない方は、この5つを見直すところから始めてみてはいかがでしょうか。
- 睡眠
- 運動(必ず汗をかく)
- ビジネスと関係ない友人を作り、維持する
- バランスよく、戦略的に食べる
- メンタルヘルスの問題は、数カ月単位でなく、数週間のうちに対応する
(2)トップ起業家/投資家たちが実践していること
現Open AI CEOのサム・アルトマン氏は、前職であるY Combinatorの2代目代表に就任した2014年『Founder Depression(創業者の鬱)』と題したブログ記事で、次のように語っています。
「創業者は、従業員とその家族、顧客、投資家など、多くの重圧を背負っています。 創業者は、利害が対立しがちな関係者たち全員を幸せにしなければならないという責任を感じるものです。 また、たとえ共同創業者がいても、説明しがたいほどの孤独を感じます。… 私が知っている創業者のほとんどは、深刻な暗黒時代を経験しており、たいていは誰にも頼れないと感じていました。 何はともあれ、あなたは一人ではありませんし、恥じるべきではありません」
そうして孤独感や恥じる気持ちを手放すよう促すとともに、事態を打開するためのアドバイスとしては「『絶好調です!』と口にする代わりに、自分が直面している問題について人に話してみると、驚くほど気持ちが楽になるはずです。 他の創業者が真剣に耳を傾けてくれることにも驚くでしょう」と述べています。
米著名VCのアンドリーセン・ホロウィッツ(a16z)共同創業者で『Hard Things』著者でもあるベン・ホロウィッツ氏も、気持ちを鎮める方法として「友人に本音を打ち明けること」を勧めています。ブログ記事『What’s The Most Difficult CEO Skill? Managing Your Own Psychology. (最も困難なCEOスキルとは?自分の心理をコントロールすること)』の中では、次のようにアドバイスしています。
「友人をつくろう――。あなたが下そうとする困難な決断について、誰かから質の高いアドバイスを得ることはほぼ不可能です。しかし、同じような難しい意思決定を経験した人と話すことで、心理的には大きな助けになります」
同じ記事の中では、他にも「頭の中を紙に書き出す」「避けたいことよりも、どこに向かっているのかに集中する」の2つを提案し、諦めないように勇気づけています。
(3)メンタルヘルス先進国の支援組織が伝えていること
北欧デンマークで同国最大のスタートアップイベントを運営するTech BBQでは、Founder Wellbeing Project というメンタルヘルスの支援プログラムを提供しています。目的は「創業者が持続可能で満足のいく人生を送りながら、スタートアップをビジネスとして成功させることを支援する」ことで、具体的な取り組みには、リトリート、講演、ウェビナー、ワークショップなどが含まれます。
その一環として今年9月に公開されたのが『The Startup Founder Wellbeing Report(スタートアップ創業者のウェルビーイング報告書)』で、起業家が直面する心理的な困難について下記4つを挙げています。
- 創業者は、自分の価値を会社の業績と結びつけてしまいやすい。
- 創業者は、ベンチャー企業の構築というマラソンの中で、旅を続けるうちに当初のモチベーションが低下していくことに気づく。
- ビジネスにおける感情的な負担に対処したり、ときに自分の力ではどうにもならない状況を受け入れたりすることは、高いパフォーマンスを追求する創業者にとって難しい。
- 経験の浅い創業者は、やるべきことが無限にあり、常に遅れをとっているような感覚に直面し、自分自身をケアするための時間とエネルギーを確保することの重要性を軽視しがちである。
同レポートには上記の困難を乗り越える具体的なツールが数多く紹介されていますが、プロジェクトリーダーであるHarry Justus氏は取材に対して、特に次の3つを提案してくれました。
- 心から信頼できる人に本音を打ち明けよう。
- 不安や緊張に襲われたら、次にやるべきこと(The next right thing)を1つだけに絞って、その最重要タスクをうまくやることに集中する。次にやるべきたった1つのことが「休息」であれば、片手間ではなく休むことに集中しよう。
- 会社と自分を同一化しない。「人生から会社を除いたら何が残るか」と問いかけてみよう。趣味を持つなら、仕事から完全に切り離されて頭がスッキリするような瞑想的(Meditative)な効果があるものを、自分の感覚を頼りにして見つけよう。
(4)組織心理学者がウェルビーイングのために勧めること
組織心理学者でベストセラー作家のアダム・グラント氏は、世界的にコロナの影響が長引く中で、うつなど精神疾患の症状はないがウェルビーイングの度合いが低下する「languishing」という状態の人が増えているとTEDトークで指摘しています。
仕事における効果的な打開方法として、下記の3つを提案しています。
- Mastery(習得):進捗が目に見えて実感できること
- Mindfulness(マインドフルネス):目の前のタスクに意識を集中すること
- Mattering(意義を見出す):今自分の仕事で喜んでくれている人たちと繋がる
自分やチームの日常に足りていないと感じたら、ぜひ取り入れてみてはいかがでしょうか。
(5)起業家が心理カウンセリングでできること
心理カウンセリングというと、精神疾患の「治療」というイメージが強いかもしれませんが「予防策」として受けることも可能です。実際にカウンセリングを受けている米国のスタートアップ起業家は、「 “危機”が訪れて初めてカウンセリングを受ける人がいますが、間違ったアプローチだと思います。それは、心臓発作が起きるのを待ってから血圧を測るようなものです」と記事の中で述べています。
心理学の専門家によるカウンセリングに対する抵抗感は、国や地域、業界の文化によって大きく異なります。日本よりはカウンセリングに対する理解が進んでいる欧米でも、スタートアップ業界に関しては長らくメンタルヘルスケアに対する偏見が大きいとされてきました。しかし、その潮流は少しずつ変化しつつあります。
上述の記事に登場する起業家たちは、カウンセリングを受けるメリットを次のように語っています。
- 孤独感や精神的な負担の解消
- 友人や家族に同じ不安や悩みの話を何度も聞かせなくて済む
- 助けを求める際に罪悪感を覚えていると認識して克服することで、権限委譲ができるようになり、苦手分野はパートナーシップを組むことにも積極的になれた
- 議論が白熱しても冷静を保てるようになった
また、心理カウンセリングにはカップルや夫婦が一緒に受けるスタイルのものがありますが、サンフランシスコを中心に共同創業者同士が一緒に受けるカウンセリングを提供するクリニックが登場しているようです。
どこまでが自分で取り組むべきウェルビーイングの領域で、どこからが通院したりカウンセリングを受けるべき精神疾患なのか、明確な線引きはありません。また、信頼できる人に本音を打ち明けることが効果的と分かっていても、誰を信頼できるか分からないと感じるなら、守秘義務を持つ専門家に話すのが安心かもしれません。
メンタルヘルスケアに対する偏見を捨てて、自分と事業への投資として普段から信頼できる専門家と話をしておけば、Hard Thingsにぶつかり精神的に危機的な状況に陥ったときにもサポートシステムとして機能させることができます。
偏見をサポートに変える好循環を始めよう
投資家がメンタルヘルスを重視すれば、起業家は安心して予防や対応に取り組むことができます。起業家がメンタルヘルスを重視すれば、その会社の社員たちも長期的に安定したモチベーションとパフォーマンスの素地となるメンタルを構築できるようになります。この業界でイキイキ働く人が増えれば、スタートアップに転職したいと考える人も増えて、採用が楽になるかもしれません。
そうして心身ともに健康を維持しながら安定したリーダーシップを発揮する経営者のもとで、優秀なメンバーたちが高いエネルギーレベルで事業を実行するスタートアップが増えれば、投資家にもリターンがあるはずです。
ぜひ、自分や社員のメンタルヘルスを守る方法を考えたり、専門家を探して話してみたり、周りの人たちと本記事をシェアして議論したり、スタートアップ業界に好循環を始める行動を1つでも起こしてみませんか?
※訂正:記事初出時、ADHDについて「発症」という言葉を使用していましたが、厚生労働省の解説にあるようにADHDは発達障害であるため表現を改めました。
Contributing Writer @ Coral Capital