本記事は豊田菜保子さんによる寄稿です。豊田さんは、楽天をはじめ、国内外の企業で人材育成やダイバーシティ推進を専門としてきました。現在は、スタートアップや起業家人材の支援プログラムを主に自治体と協力して企画・運営する傍ら、スタートアップやテック企業向けに「人」「チーム」「コミュニケーション」に注目した研修やアドバイザリーを提供しています。
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夢中で働きたい人の「ワークライフバランス」とは?
「ワークライフバランスなんて、いらない」ーースタートアップで働いている人、特にシード〜シリーズAの段階であれば、大多数がそう考えるのではないでしょうか? もし「ワークライフバランス(以下、WLB)」という言葉が、「残業なし・土日休みのライフスタイル」を意味するのであれば、たしかに多くのCoralブログ読者には現実的でも、魅力的でもないでしょう。
ところが、「WLB」の定義が、「生産性の高い仕事ができる生き方」だとしたら、どうでしょうか? わたし自身、20代前半で仕事の面白さに目覚めて以来、夢中になると週7日稼働でも苦になりませんし、自由を優先してパートナーや子どもを持たないライフスタイルを選んでいます。とはいえ、20代で学んだのは、24時間365日仕事だけしていると、視野が狭くなるのか、一生懸命さが重くなるのか、人をうまく巻き込めなくなってしまうこと。独りよがりな意思決定が増えること。そして、頭では元気に仕事をしていても、体や心を無視していると歪みが出てきて、結局は生産性を落としてしまうことでした。
その後、いわゆる「WLB」という言葉で連想される「残業なし・土日休みのライフスタイル」を求めて、地元でのんびり働くフリーランスになったり、WLB先進国のオーストラリアで会社勤めをしたこともあります。しかし、今度は物足りないのです。仕事好きな人にとってのWLBというのは、効率性と創造性を保って、がむしゃらに仕事に打ち込む土台であると同時に、既成のテンプレートではなく、自分なりのスタイルを見つけて実践するものだと気づいた経験でした。
先日話題になった記事『トップクラスの人たちにワークライフバランスはあるか?』では、Coral Capitalのジェームズが、「勝つために必要な労力を注ぎ込みながら、人生全般におけるエネルギーを最大化・最適化できるやり方を見つけることが重要」と述べて、「ワークライフブレンド」というスタイルを提案しました。多くの読者が共感した一方で、同記事でも「人生における優先順位は人それぞれです。起業家や経営幹部はこの普遍的な真理を理解し、考慮しなければなりません」と指摘するとおり、WLBのあり方は人の数だけ存在します。「ブレンド」だけが答えではないと、私は考えています。
そこで、この記事では、日本や世界の働き方を変えていく、新時代のビジネスリーダーである読者の皆さんと一緒に、WLBの定義やスタイルの多様性について深掘りしてみたいと思います。あなた個人のWLBはもちろん、現在や将来の自社メンバーに対して、どんなWLBの選択肢を提供する会社にしたいのか、ぜひ読みながら考えるキッカケになれば幸いです。
経営者なら知っておきたい!WLBの歴史を「ざっくり」復習
「WLB」という言葉を聞いて、あなたは何をイメージするでしょうか? この質問をすると、ワーキングマザー、有給休暇取得、DXやリモートワークなど、人によって様々なキーワードが出てきます。実は、WLBの概念は時代とともに拡大してきて、今ではたくさんの要素を含んだものになっています。スナップショット的に定義しようとしても、盛りだくさんすぎて本質が掴みにくいのです。
WLBの定義を理解するために、ざっくりと歴史を辿ってみましょう。下の表に、大まかな流れをまとめました。現在のWLBは、過去から続く議論や対策を、すべて含んだものになっています。
最初の「WLB1.0」が世界的に広まったのは、1980年代からの「女性の社会進出」の文脈でした。それまで、ワーク(社会・経済的な労働)=男性、ライフ(家庭での労働)=女性、バランス=男女の役割分担だったのが、ワークとライフを両方担う女性が増えたのです。
ただ当時は、ほとんどの企業で長時間労働があたりまえ、保育園等のインフラも不足している時代です。職場と家庭という2つの労働・責務をまえに、「どうバランスを取るのか」と悩む女性が増えました。結果として、子育て世代の女性が職場を離脱する「M字カーブ現象」が顕著となり、社会全体でWLBを支援する機運が高まりました。
続いての「WLB2.0」は、バブル崩壊後の1990年代、働く人(労働者)の過労死・自殺・精神疾患が社会問題化したことから議論が活発化しました。2000年代には国レベルで法整備が進み、経営サイド(使用者)に対応が求められるようになります。労働者を守ってきた組合が弱体化・消滅していく時代に、使用者が労働者を搾取しにくい仕組みを整えたといえるかもしれません。
WLB2.0では、主な対象が「働く既婚女性」から「すべての労働者」に広がり、求めるバランスは「仕事 vs 家庭」という2つの責務の両立に、「仕事 vs 休息・生きがい」という軸が加わりました。当時の政府報告書(下記参照)でも、WLB1.0の流れを汲みながら、解釈が広がっていることがわかります。
さらに、2010年代以降、「WLB3.0」になると、個々人が「多様」で「柔軟」な働き方を「選択」できることが目指されるようになりました。発端となったのは、国際比較で明らかになった日本の「労働生産性」の低さです。日本人の美徳とされた「長時間労働」や「勤勉さ」は、WLB1.0・2.0推進で大きな障害となっていましたが、これらが価値の創出につながっていない現実を突きつけられたことで、本格的な「働き方改革」が始まりました。
また、2010年代はスマホやWi-Fiが普及し、2020年代にはコロナ下でリモートワークが浸透したことで、働く「場所」の自由も広がりました。生産性を維持・向上するために、いつ・どこで・どう働くのか?ーーパンデミックで約2年間の実験期間を与えられ、経営者や個人事業主も含めて、誰もが自分なりのWLBのあり方を模索する時代になっています。
このようにWLBは、女性の社会進出にはじまり、働く人のウェルビーイング、労働生産性の向上を目標として、そのための行動変容を社会や企業に求めて進化してきました。ミッションのために老若男女問わず優秀な人材を集め、それぞれが高い生産性を発揮して勝負をかけるスタートアップにとって、無縁ではいられない概念ではないでしょうか?
WLBの最適解を考える5つの視点とは?
これからは、企業が全社員に最適なWLBのテンプレートを決めて与えるのではなく、個人や家族単位でWLBの最適解を認識・言語化し、「私の最適解はこれですが、貴社で実践できますか」と問われる時代になっていくと思います。提供できるWLBスタイルのバリエーションが豊かな企業ほど、生産性に真摯に向き合っている優秀な人材を獲得しやすくなるのではないでしょうか?
では、あなたは自分に最適なWLB(どんな状況で、最も生産性が上がるか)を、どのように認識・言語化・実践しているでしょうか? また、メンバーのWLBの最適解を、どれくらい把握しているでしょうか? 例として、下記に5つの視点を挙げますので、自身やメンバーの生産性を最大化する答えを考えてみてください。
1. 「戦時」の最低ライン
どんな仕事にも、「平時」と「戦時」があります。たとえ普段から多忙を極めていても、トラブルが起こったり、期日が重なったりすれば、それを上回る状況になるからです。あなたの頭・心・体を守るために、「戦時」でも絶対譲れない最低ラインはどこでしょうか? これは個人差が大きいので、「3日寝なくても大丈夫」という人と、「1日でも睡眠が3時間を切ると頭が動かない」という人がいます。
戦時は精神的にも追いつめられますので、最低ラインがお互いに共有されていないと、「あの人、全然寝てないけど大丈夫かな」と心配になったり、「あいつは、なんでこんな時に悠長に仮眠なんて取れるんだ」と腹を立てたりしてしまいます。これ以上頑張っても戦力になれない、むしろイライラして口論だけ増えたり、ミスをしたり、トラブルの元になるというお互いの限界を知っていることが大切です。
2. ワークライフブレンド:調和させたい ↔︎ 分けたい
「ワーケーション」という言葉に対して、世間の反応は「働きながら旅ができるのは素敵!」という肯定的な意見と、「仕事は仕事、旅は旅で、どちらかに集中したい」という批判に分かれました。前者は、テクノロジーの進化とともに市民権を得ている「ワークとライフと調和させたい派(Integration, Blend)」、後者はウェルビーイングの維持に効果的という研究結果もある「区別したい派(Segmentation)」の代表的な考え方です。
たとえば、オンとオフの「空間」を分けた方が生産性が上がるので、フルリモートが可能でも、オフィスに行きたい人がいます。また、「空間」の調和は問題なくても、生産性(下記3で詳述)や生活事情に合わせて、「時間」の境界線は明確にしたい人がいます。時間の分け方には、オンとオフで2分割するか、オンの時間をさらに「一人でもくもく作業」と「チームで共同作業」に分けたい人もいるでしょう。
最終的には、チーム・組織の働き方とすり合わせをすることになりますが、ベースラインとして、自分の能力や集中力を最も発揮できる調和・分割スタイルを知っていることが重要です。
3. 生産性が高い時間帯:朝型↔︎中間型↔︎夜型
どの時間帯に生産性が高いかは、人によって違います。一般的には、朝早くに集中力が上がり、昼過ぎに落ちて、夕方に盛り返すという人が多数だそうですが、逆に夜に思考が最もシャープになる人もいるようです。人間の脳は、疲れてきたときの方がクリエイティブになるという研究もあり、タイミングだけでなく、タスクの種類によっても、最適な時間帯は異なります。
スタートアップで働いていると、様々な種類と難易度のタスクを、それぞれが抱えることになります。Todoリストの順番は、優先順位だけでなく、自分の脳のリズムも考慮して決めてみてはいかがでしょうか?
4. 働く時間の長さ
先述の記事で、ジェームズも「『働いていると感じないくらい好きな仕事をする』というのが史上最強のキャリアハック」と書いていますが、「仕事をしていると元気になる」という人はスタートアップ業界には多いようです。たしかに、ワーカホリックは一般的に健康に悪いとされますが、ワーカホリックでも仕事を楽しんでいる人(Engaged Workaholic)は健やかであるという研究結果があります。
また、経営者の多くは、仕事にお金を稼ぐツール以外の意味を見出しています。以前、マネックス証券創業者の松本大氏が、「この事業さえやっていれば、社会貢献とか全てができるように設計した」とおっしゃっていました。他のことをしなくても満足度が高いから、働く時間が長くなっても納得できるのです。
とはいえ、会社が成長するにつれて、自分が働く時間が周りに与える影響に配慮する必要があります。上司や経営者の働く時間は、社員にとって働き方のベンチマークです。一緒に頑張ってくれれば頼もしいですが、それで疲弊したり、潰れてしまっては困ります。また、特にエンジニアの人は仕事以外の勉強時間等も欲しいでしょうから、起きている時間のどれだけ仕事に捧げることに納得できるのかは、個人で考える必要があるのです。
5. 周りの人の状況
家庭(子、親、パートナーetc.)や職場(上司、部下、顧客etc.)の人たちが、どれくらいあなたをリアルタイムで必要とするかは、自身のWLBを設計する上で鍵となります。サポートを必要とされる頻度があまりにも高い場合は、タスク自体をアウトソースしたり、人材を育成して権限委譲したりできるでしょうか?
また職場の状況は論理的に考えられても、家庭のことは、それぞれの価値観や感情に関わるので簡単ではないかもしれません。とあるスタートアップ起業家と離婚した元パートナーから、「忙しい人と結婚したのは分かっていたけど、もはや家族だと感じられなかった」という話を聞いたことがあります。心では応援したいと思っていても、寂しい思いに耐えきれなくなることもあります。家族やパートナーとの関係性は、センシティブな問題だと感じます。
WLB最適化のために、チーム・会社ができること
WLBの最適化には、チームと会社の協力が不可欠です。個々人の生産性を最大化するために、会社やマネージャーはどのような支援ができるのでしょうか?
採用においては、面接の質問の中に、WLBに関する質問を含めることをお勧めします。雇用における差別予防の観点から、家族構成などを聞くのはNGですが、どういう働き方や状況で生産性が上がりやすいのか、成果が出しやすいのかを聞くのはOKです。
入社後のオンボーディングでは、WLB最適化のプロセスを支援するよう心がけます。例えば、新卒や自由裁量の少ない企業からの転職者であれば、まだ自分なりの最適解を持ち合わせていないかもしれません。その場合は、いったんデフォルトの「働き方」を与え、1on1での振り返り等を通じて、その人に合わせたスタイルに調整していく手伝いをしましょう。
また、WLBは変化していくものなので、定期的に再調整することも重要です。バーンアウトで退職を希望するメンバーが出た場合は、WLBスタイルの改善で引き留められないか可能性を探りましょう。
シード期からWLBを実践して、成功の可能性を高めよう
全てを仕事に捧げた結果として、家族や心身の健康を失ったり、かけがえのないものをなくしたときには誰も責任をとってくれません。また、家族との時間を大事にするために、起業や会社経営の夢を諦めたとして、それを家族が喜んでくれるとも限りません。WLBは、家族、会社、上司、投資家、顧客など、さまざまな人たちとの関係性に影響されながら、それぞれが自分で答えを決めるしかないテーマです。
とはいえ、個人が集まってチーム・組織として機能するためには、コラボレーションするための方針も必要です。コロナ後のテック企業やスタートアップの働き方について、動向をまとめた記事を後日公開予定です。この記事とあわせて、次世代のトップ企業をつくるリーダーである皆さんに、自身と自社の生産性を進化させるヒントにしていただければ幸いです。
Contributing Writer @ Coral Capital