結婚する前に互いに期待することや財産に関する権利を明文化して契約として夫婦間で締結する「婚前契約」は日本では、あまり利用されていません。しかし、スタートアップの創業者が非公開株式の所有権について婚前契約で事前に規定しておく例は増えています。
もし離婚した場合、財産分与で創業者の配偶者が突如としてスタートアップ企業の大株主となり、議決権が割れてしまう企業ガバナンスの問題に発展するリスクがあるのが理由の1つです。一般の会社員や自営業者と比べて資産の額が桁違いに大きくなる可能性があり、かつ、必ずしも流動性がない可能性があることも問題化した場合の扱いを難しくしています。逆に、起業家が債権を抱える可能性もあり、そうした経済的にインパクトが大きな将来起こり得るイベントについて事前にパートナー同士で話し合うのは有効かもしれません。
スタートアップ創業者は非公開株式の扱いについて婚前契約を結んでおくべき――。こうアドバイスするスタートアップ関係者は増えています。スタートアップ特化のバックオフィスサービスを提供しており事情に詳しいWORK HERO創業者の大坪誠さんと、弁護士の中村公哉さん、Yazawa Venturesの矢澤麻里子さんにお話をうかがいました。また本記事では汎用的に使えるシンプルな婚前契約の契約書テンプレートを公開します(聞き手・Coral Caitalパートナー兼編集長 西村賢)
Amazon創業者のジェフ・ベゾスは離婚で約4兆円の財産分与
――日本の民法では結婚後に築いた財産は基本的には夫婦の共有財産となっていて、離婚に際しては二等分するのが基本ですよね。妻・夫のどちらがより多く稼いだかによらず、平等に二等分です。
中村:はい、基本的にはおっしゃる通りです。結婚前に持っていた財産で、明らかにその人だけのものと特定できるものについては、結婚後も元の人の固有財産ですが、それ以外の結婚後に築いた財産は基本的に夫婦の共有財産です。
――スタートアップ創業者は例外で問題になり得る?
大坪:例えば大富豪のビル・ゲイツもジェフ・ベゾスも、資産の大部分が共有財産になっていたので、離婚の際に創業した会社の株式を半分、元配偶者に譲渡していますよね。ジェフ・ベゾスの元配偶者のマッケンジー・ベゾスはAmazonの約2,000万株(約4兆円)もの財産分与を受け取り、世界富豪ランキングに入りました。ベゾス夫人は議決権を放棄したのですが、世界で100万人を超える従業員がいるグローバル企業のガバナンスの問題にも発展しかねない、と、ちょっとした騒ぎになりましたよね。
アメリカではスタートアップの創業者に限らず、婚前契約を結ぶことは日本と比較すると多く、5%近くのカップルが締結しているという統計もあります。それでもビル・ゲイツやジェフ・ベゾスのような事例が起こっています。
これが日本だと、そもそも婚前契約は、事例も少なく、表になる事例はさらに少ないです。今回、改めて中村先生に事例を調べていただいたのですが、公の事例がほどんどどない。この分野を専門的に扱う弁護士も少ない。つまり、専門的に取り扱うほどのニーズがなく、婚前契約はまだ日本では普及していないということも言えそうです。
――額によらず全て夫婦の共有財産で当然だという立場の人もいらっしゃると思いますが、何兆円という単位だと、また印象は変わるかもしれません。でも、日本ではジェフ・ベゾスほど大きな金額の事例は聞きませんよね。
大坪:実はこういった事例はプライベートな内容も含むためか、日本では公になりにくい面もあります。しかし、私が実際に知っている例で、日本のスタートアップ創業者の事例でも、未実現の非公開株式を財産分与せよと、そのスタートアップに出資しているVCのパートナーに対して離婚した元配偶者から連絡が来たり、取締役会に押しかけてきた、という事例も実際にあります。
そんなこともあってスタートアップ創業者で婚前契約を結ぶ人は、日本でも少しずつ増えてきていますね。私の友人の起業家も数割ぐらいは結んでいる、という印象です。非公開株式については共有財産の対象外とする、という婚前契約により万一離婚してしまった場合にですね。
――なるほど。ちなみに男性ではなく、女性の創業者でも同じですよね? アメリカだとセレブの女性は結んだりするようですが。
大坪:ええ、もちろん。n数は多くないのですが、私の観測範囲だと、むしろ女性経営者の方が、ちゃんと婚前契約を結んでいる印象ですね。
――矢澤さんはVCとして女性起業家に出資されることも多いかと思いますが、いかがでしょうか?
矢澤:ええ、やはり女性起業家にも婚前契約の締結を勧めますね。今のところ1号ファンドで出資させていただいた起業家で、出資後に結婚に至った方はいないので、まだ事例はないのですが、もしあれば、性別によらず、婚前契約についてアドバイスするつもりです。
――ちなみに、矢澤さんご自身は女性VCとして婚前契約は検討されたのでしょうか? ファンドのGPなので大きな資産ができる可能性があるかと思います。
矢澤:いえ、ファンドの組成が結婚後だったので、夫とは婚前契約は結んでいません。夫はスタートアップ支援に力を入れている弁護士事務所の弁護士なので、当然そういう話も出ましたが、婚前契約を検討するほどの株式などの金融資産が結婚前になかったんですね(笑)
婚前契約には何を、どこまで書く?
――ドラマの見過ぎかもしれませんが、アメリカの婚前契約というと生活の細かなことも条項にして書くイメージもあります。
大坪:ドラマや映画で出てきますよね。有名なアメリカドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』を見ていると、婚前契約の話は複数回出てきます。お金持ちの老人と結婚した若い女性が、婚前契約の内容でもめているシーンなんかも出てきますよね。結婚式直前に、お互いの弁護士が横にいる場で夜の生活の週当たりの回数を何度も交渉しているシーンもあったり(笑)。公序良俗に反しないような内容であれば、そういうことも含めて婚前契約にはどんな内容でも含めることができます。
中村:「夜何時以降に帰るときは連絡すること」とか「外泊しない」というのもありますね。あるいは「乙が趣味のアイドル活動に使える額は月3万円までにする」とか。なんでも入れられると言えば、入れられます。この例では、永遠に3万円でいいのかなと心配になりますけど(笑)
――それは「毎年収入に応じて交渉できるものとする」と書いておかないと(笑)。こうしたことって、実際にはどこの夫婦もそのつど話し合いはしているものだと思いますが、文書化を通して、互いに交渉や確認するというのは良いことかもしれませんよね。ちなみに、こういう条項は無効というようなものはありますか? 婚前契約に書いてあれば何でも法的拘束力が発生するのですか?
大坪:明確な基準はありませんが、公序良俗に反するものは無効です。
中村:一般的に無効とされるのは、例えば一方当事者から強制的に離婚できるとか、「親権は妻(夫)」と、事前に決めてしまうようなものですね。ただ、今回の話は財産についての契約なので基本的に問題はありません。日本の民法では夫婦は別々に固有の財産を持てることになっているので、それを決めておくということですね。
大坪:契約の条項として「自分の主張を全て受け入れること」というような一方的な項目が入っていると、契約全体が不当と見なされる可能性があるので、条項が複数並ぶようなら「分離条項」を入れておくのも良いと思います。
――分離条項とは?
大坪:契約実務で一般的な条項ですが、契約の一部分が不当で認められなかったとしても、全体が認められないということにならないようにするための条項です。契約書の最後の方に入れることが多いです。
例えば婚前契約が10条まであったとして、この中の第9条が「一方的に離婚できる」としていて、これが裁判で否認されたとしますよね。このときに契約全体が不当だと相手に主張されないようにするために入れておく条項です。第9条以外の、残りの第1条から第8条、第10条は単独で成立する、という文言を入れておくといいということです。
分離条項というのは大型のM&Aなどで、契約書に条項がたくさん並ぶようなときにも使います。私は三菱商事勤務時代に金属鉱山への事業投資の部署にいたんですが、契約書が何百ページにも及び、当然、条項もかなり多いんですね。その結果、将来当初想定し得なかったパターンが現実になり、何条の何項と何条の何項が論理的に相反する、という状態になることがあり得るんです。だから契約書が長くなるときには分離条項を入れることが一般的ですね。
ただ、今回の話は非公開株に関する所有権に限った話ですし、ここは比較的自由に決められます。全ての財産を私のものとする、という圧倒的に不平等な内容は認められない可能性もあるのですけれども、一般的なものであれば大丈夫です。
結婚後の契約は一方的な破棄が可能
――では、具体的にスタートアップ創業者が結ぶべき婚前契約には何をどう書けばいいですか?
大坪:内容の前に、まず大事な話があります。契約するタイミングです。実は結婚後の夫婦間の契約は、基本的に片方が自由に破棄できちゃうんですね。なので婚姻をする前、もしくは婚姻していないときに、婚前契約を結ばないといけません。婚前契約という名の通りですね。
もし婚姻中の方が有効性のある契約をするには、まず一度離婚をして、その後に婚前契約をして、もう一度結婚するという手続きが必要になります。本当にやるならば、ですけど。
――その提案をしたら2度と結婚してくれないかもしれませんけど(笑)
中村:それはあるかもしれませんが(笑)、法律上はそういうことになっていますね。
――当人同士が納得するのであればOKですね。
中村:はい、実際、知人の経営者から、経営者で1度結婚していたものの婚前契約するために離婚してもう一度結婚した人がいるという話を聞いたことがあります。
――おお、実例があるんですね。
中村:ええ、やっぱりそれだけ重要なんだと思います。
――なるほど。いずれにしても、今回の婚前契約の話全般について言えるのは、相互が十分に話し合って、納得し、合意した上で取り決めるということですよね。
条項として具体的にどう書く?
――非公開企業では議決権がガバナンス的にも重要なので、非公開株については本人が持ち続けられるようにしておいたほうが良いかもしれませんよね。株式には財としての価値と、議決権としての価値がありますが、この2つは不可分ですし。となると、契約の条項は具体的にはどう書けば良いのですか?
大坪:記載すべき項目は非常にシンプルで、「非公開株に関しては、それぞれの固有財産とする」ということですね。ほかに何かありますか、中村先生?
中村:ええ、そうですね。財産分与の対象から外す、ということですね。もうちょっと言うと「『取得時に』非公開だった株式に関しては共有財産から排除する」と、取得タイミングを書いておくとベターだと思います。こう書いておけば、過去と未来の両方で適用されるようになります。いま持ってる非公開株式と、これから手に入れる非公開株式も対象ですよ、と。これを入れておかないと、後で困る可能性があります。
起業家の方だと複数の会社を起業したり、エンジェル投資をする方もいると思います。そのときにエンジェル投資した先の非公開株式の権利が財産分与で配偶者に渡ってしまうと、かなりややこしい話になってしまいますから。
大坪:創業者や経営陣はもちろん、エンジェル投資家の方も注意ですよね。突然スタートアップの創業者にエンジェルから連絡が来て、旦那さんや奥さんに半分、株を譲渡しなければならない可能性がある、という事態もあり得るわけですから。株式譲渡制限会社だったとしても、誰がお金を出して引き受けるのかなどの問題が出てきます。
――突然、誰だか分からない個人株主がキャップテーブルに現れたら、既存投資家も困惑しますね……。
よりリスクを抑えるなら婚前契約書の登記を
大坪:もう1つ重要な話として「対抗要件」という検討ポイントがあります。当事者である夫婦ではなく、第三者に対して契約内容を認めさせるための要件というのがあるんですね。その対抗要件を得るには、実は登記をしなくてはならないんですね。
登記というと法人とか不動産のイメージが強いと思うんですが、契約内容についても登記ができます。登記をすると誰でも見られる公開情報になります。そのときに初めて第三者にその契約内容を認めさせることができます。
――どういうケースで対抗することになるのですか?
大坪:例えば夫婦のどちらかが亡くなってしまった場合、遺産は相続されるわけですよね。創業者の配偶者に権利があって、通常は半分を受け取れるわけですね。その配偶者が亡くなった場合には、その方の親御さんが相続人になりますよね。
その際に、登記がない場合には、夫婦間の契約を第三者が知り得ないので、親御さんは「善意の第三者」という立場になります。
そうすると、第三者である親御さんが配偶者の当然の遺産として株式の権利を主張してくる可能性があるわけです。そうした請求に対抗するためには登記しておくのが本当は望ましいです。
他にも亡くなった配偶者が何か別の契約をしていて、その債権を持っている人が取り立てに来たときにも、請求ができないようにできます。婚前契約を登記までしている人は、現状はかなり少ないのですが、これが最もリスクを抑えられる形だと思います。
中村:私の知人で10年以上司法書士をやっている人に聞いたのですが、婚前契約の登記をしたというのは聞いたことがないという話ですね。 ただ、いま大坪さんが言ったように、いざ離婚して、その人が死亡した場合に困る可能性があります。
創業者間契約を結ぶなら、婚前契約も結ぶべき
――数年前だとスタートアップの創業メンバーたちの間で創業者間契約を結んでいないケースがあったかもしれませんが、今はVCが投資するときには創業者間契約を結ぶことを条件にしていたりしますしね。創業者の仲違いや離脱は、あまりにリスクが大きいので。創業メンバーの1人が株式を持ったまま抜けて連絡がつかなくなると重要な経営上の意思決定でも影響が出るなどリスクになります。離婚も同様になり得る、ということですよね。
大坪:そうなんです。創業者間契約を結ばなければいけないと言って結んでいるのに、なぜ株式の所有権に関して配偶者と婚前契約を結んでいないのか、ということです。同じくらい大きな経営上のリスクですし、離婚率は日本でも35%程度と決して低くはありません。実際にはメンタル的にも生活的にも不安定になりやすいからか、創業者の離婚は3割よりも多い気がしますし……。
そう考えると創業メンバーたちがスプリットするのと同じぐらい問題化する可能性があると思うんです。ここは認知されていないリスクとして業界にどんどん広めていきたいと思っています。
――日本だとあまり婚前契約の事例がないという話でしたが、離婚時に株式の財産分与でもめた、という話のほうは聞きますよね。
大坪:ええ、そうなんですよ。私もかなり事例を聞くので、珍しいことではないと思います。ただ、今回この記事企画のために判例を中村先生に調べていただいたんですが、判例の数が少ないんです。おそらく和解になっているケースが多いんですよ。最後までもつれて判例にまでなっているケースが意外と少ないんです。
――調停で済まずに最後までもめたときにだけ判決が出て、それが判例になりますもんね。
大坪:ええ、判例になると公開されるわけですが、自分のプライベートな情報を外に出したくないじゃないですか。それで判決にいたらずに和解する人が多いのだと思います。離婚の理由はいろいろあると思いますが、不貞行為があったとか、家庭内暴力があったとか、全部明記されてしまいます。社会的地位がある人だと、そうしたことが表に出ること自体がリスクなので、和解できるように相手方と協議を続ける、ということも判例の少なさに影響していそうです。
「原告経営者:配偶者=95:5」の判例も
大坪:調べてみたら、上場企業の社長の事例が1つありました。
――保有する株式についてですか?
大坪:ええ、原告側が被告の保有する株式の資産価値上昇に寄与したのではないかと主張していました。ただ、この判例に関しては、たまたま株価が下がっていたので、そもそも財産分与の争点にならなかった、という形でした。
中村:こうした判例で難しいのが財産分与の比率です。普通は夫婦共有財産は五分五分で、という運用ですが、創業者とか社長となると、その人じゃないと稼げないものじゃないですか。だから配偶者だったというだけで半分というのはおかしいよね、と結構もめるんですよね。
――日本の民法は、一方が極端に稼ぐケースを想定して作られていないということもあるのかも。
中村:医師の離婚のケースでも、もめることが良くあります。クリニック経営をしている方が、五分五分はおかしくないかと主張するケースですね。こうしたケースの判例は結構出ています。
今回調べた判例で、上場企業の社長の場合どうだったかというと、被告と配偶者で「95:5」で分けましょうとなっていました。5%ですね。
――その比率を裁判所はどう判断するのでしょうか?
中村:難しいですよね。多分、裁判所としても「わからん」という感じではないかと思います。こういう判決はできれば出したくないですよね。判例として出してしまうと、それがその後に1つの基準になってしまうので「調停で何とか当人同士で話し合えませんか」「これくらいではありませんか」と提示するくらいで処理しているのかな、というのが個人的な見解ですね。
――確かに、こういうケースで下手に判例で数字を示すと、大げさに言えば経済活動にも影響が出てくる話になりますしね。
中村:判例として出てしまうと、今後に似た事例があったときに「やっぱり95:5だよね」となっちゃいますからね。ちなみに、お医者さんのケースだと「6:4」だったんですが、これも基準になりますよね。
――95:5のケースで元配偶者の被告側は納得したんでしょうか。
中村:どうでしょうね、でも財産分与の対象が約220億円だったので、5%といっても11億円相当ですからね。それなら十分いいのではないかと私自身は思いましたが、額の話と気持ちの問題は別ですから、どうでしょうね。
――離婚は人間関係の話なので「お金の話じゃないよ!」となりますよね。元ベゾス夫人は受け取ったお金をどんどん慈善団体に寄付してたりしますし、議決権やお金の話ではないのかなとも思います。
中村:そう、当人たちにしか分からない感情の問題もありますから、やっぱり判決は難しいですよね。だからこそ婚前契約を結んでおきましょう、という話になるのかなと思います。
未公開株式とは何かの理解がないと難しい
――難しい問題として、そもそも未公開株式とは何かということが広く一般に理解されていると限らないことですよね。一緒にスタートアップをしようという創業者間契約だと契約当事者たちは株式とは何かが分かっているわけですが、普通は知らないですよね。
中村:おっしゃる通りです。先ほどの220億円の5%というケースで、例えばこの220億円が全部株だったとしましょう。すると現金で11億円を払うか、仕方なく株式を渡すしかないじゃないですか。株式を渡すと議決権が割れてしまいます。一方で、そもそも創業者の方は現金はそれほど持っていなかったりするじゃないですか。
――現金はまた別の話なので難しいですよね。上場株以上にスタートアップの未公開株式は換金性が低いですよね。創業者の資産が簿価上では何億円、何十億円となっていたとしても、流動性のある上場株のような有価証券とは意味が違うし、そもそもリアライズするかどうかも分からない。
大坪:離婚したタイミングが上場前だったとすると、そのときの時価評価なども難しそうですよね。上場した後に株価が下がるケースもあるわけですし、そのときに現金で請求されると、経営者の生活が破綻するというリスクもあります。
中村:となると株式で渡すしか方法がなく、本当に議決権を持って行かれる可能性があるわけです。
――原告側も別に会社の議決権がほしいわけじゃないでしょうけど……。
大坪:ただ、離婚となると、原因にもよるのですが、実は相手方が感情的になっているケースもあります。お金の話ではなく、とにかく「相手を困らせてやりたい」というように泥沼化しているようなパターンも見たことがあります。和解条件で50:50以上の条件でお金を出すといっても「嫌です、議決権をください。株でもらいたい」と主張し続けて、それが長期間続くケースもあるようです。プライベートの話になると、合理的に話が済まないケースが出てきます。そういうことも考えておいたほうがいいかもしれません。
財産権の事前放棄について説明をすべきか?
――議決権が割れるリスクを考えると、確かにVCとしても創業者間契約同様に、婚前契約も推奨としたいところです。
大坪:個人的な離婚によって筆頭株主が突然変わったり、大株主が敵対的な人になってしまうリスクを下げるということですからね。
――一方で、婚前契約にサインしてほしいと言うと、場合によっては嫌悪されることも? 言い出しづらいところもありそうです。
大坪:全財産ではなく、あくまで非公開株式の話に絞った婚前契約で、丁寧に意図を説明するのであれば問題はないのではないかと思います。従業員や投資家に対して責任を負っている経営者としては、万一にでも自分のプライベートの問題でステークホルダーに迷惑をかけるわけにはいきません。逆に、「会社に対してこういった責任がある」ということを伝えても理解してもらえない方とは、そもそも結婚に慎重になったほうがいいかもしれない。スタートアップの経営者としては当たり前になっている、創業者間契約の意義を伝えても締結してくれない人とは共同創業しない方がいい、というのと同じですよね。
――議決権ではなく財産権の説明はいかがですか? 株式が将来に生み出すかもしれない財産に関する権利まで最初から全て放棄しろという話は、配偶者の皆さんは納得できるものでしょうか? もしその話をしないとすると消極的な嘘をついて契約させているようにも思えます。「これにサインしてもらわないと投資が受けられないんだ。会社の議決権に関わるから」とだけ説明してサインをしてもらうとしますよね。でも、そのサインが財産権において意味するところは「10年後に10億円、100億円になるかもしれないけど、いくらになっても、あなたの取り分はゼロですからね」という契約ですよね。その説明をする義務はないのですか?
中村:契約するときに嘘をついたら無効になる可能性はあります。例えば「この契約が絶対に必要なんだ」と言うと、それは嘘ですよね。「絶対」に必要なわけじゃないですから。後になって「オレ(私)は『絶対に必要だ』と言われてサインした。もし絶対じゃなかったらサインしなかったのに」と言われると契約が無効になる可能性があります。
――あえて株式の財産的価値の意味を全く説明しない「消極的な嘘」は法律的には問題にならないのですか? 少なくとも倫理的には意見が分かれそうです。
中村:消極的な嘘は、特には法律上は問題はないですね。公開情報であれば、それを知らなかったというのは知らない人の責任です。日本の法はそうなっていますね。
――なるほど……。確かに、その前提を逆にすることのデメリットはあまりにも大きいですもんね。
大坪:そう、難しいところですが、これを逆にすると「知らなかったです」と言うことで、どんな契約も無効にできてしまいますからね。
中村:難しいですよね。実際に株を持っていかれると会社のガバナンスは崩れるわけです。でもご質問のように、なぜそんなに稼ぐかもしれないのに私に一銭も入らないという約束を事前にさせるんだ、という話も確かにあります。
――矢澤さん、この話は男女の性別は無関係ですが、現実的には女性が子育て期にキャリアを中断して、むしろ男性起業家を支えることも多いわけじゃないですか? そうした視点から見たとき、何がフェアだと思いますか?
矢澤:財産権に関する婚前契約を結ぶのは、男女ともに稼ぎがある前提があってのものだと思います。一方が専業主(夫)婦である場合に、事前に完全な権利放棄を求めるのはフェアではないと感じます。
――起業家というタフな人生を生活や精神面でも支えるわけですしね、その貢献がゼロだと言われるとつらいですよね。ただ、これがプロフェッショナルな世界なら事業への貢献度に応じてボーナスやキャリーのパーセンテージを計算する話になるところです。すると「それってほんとに10億円の貢献だと思ってる?」という起業家側からの反論も出てきそうです。一方はドライな事業貢献の話をしていて、他方は人生全体や人間関係の話をしているように思えます。
矢澤:まず、株式の持つ潜在的な財産権について相互に理解を深めた上で、共有財産から外すことについて話し合うことが大事だと思います。その上で分割割合について話をするのはありじゃないでしょうか。
――なるほど、株式がリアライズして現金化したときには、その10%を渡すとか夫婦の共有財産とすること、というような条項を入れる形でしょうか。大坪さん、こうしたことを配偶者側から提案可能ですか?
大坪:実例は聞いたことはないですけど、確かにフェアな1つの手段となるかもしれません。ただ、未来の価値は締結時にはわからないので、フェアな割合の設定は難しいですよね。たとえば株式の資産価値が1,000億円になったというとき、本当に配偶者が100億円分の貢献をしているかというと、誰がどんな尺度で評価するかという議論になってしまいます。
矢澤:分割割合を決めつつ、キャップ(上限)を決めるのもありかもしれませんよね。
大坪:私もそう思います。会社のキャッシュを守るために役員報酬の少ない大変な時期を支えてくれたことには感謝があってしかるべきで、例えば仮に大企業でサラリーを受け取って稼ぐことを仮定した場合の年収と、結婚期間の年数をかけた金額を上限とするような設定もリーズナブルかもしれませんね。
上限を決めたとしても、スタートアップ経営者以外の一般的な財産分与に比べて特別に不利ということはないんじゃないかと個人的には思います。非公開株のみを対象外とする場合、役員報酬やその他の収入は共有財産なので半々で分割することになりますので。
スタートアップにベストプラクティスのバックオフィスを提供するWORK HERO
――最後になりましたが、大坪さんが創業したWORK HEROではSaaSを活用しての効率化されたバックオフィス業務の提供がメインサービスかと思いますが、スタートアップ創業者の婚前契約の相談も受けたりしているのですか?
大坪:そうですね、基本的には経理や労務を中心に、スタートアップのバックオフィス業務をまるっと代行する、「Backoffice as a Service」なのですが、ただ「作業」を提供するのではなく、スタートアップ経営者が事業を伸ばすことだけに集中できるようにすることがミッションです。
そのために、創業者間契約だったり、今回のような婚前契約だったり、マインドシェアを取られうる内容に関しても、一般的なテンプレートのご用意がありますので、そちらを必要性と共にご案内し、個別にアレンジを加えたい方は適切な専門家の先生とお話し頂いています。他にもスタートアップで大きなイシューになることはすべて対応しており、例えばストックオプションや上場準備に向けた準備なども、ベストプラクティスをご提案・実装できます。ストックオプションについて言えば、有償、無償、譲渡契約、信託型SOと、だいたいこの4通りになるのですが、どれが良いかをご相談した上で、適切な専門家と一緒に実装もご提供する形です。
スタートアップの創業者・経営者の皆さまが、経理・労務・税務・会社運営などのバックオフィス業務を丸投げできて、さらに専門家や社員の方との窓口も一本化ができるところがWORK HEROのポイントで、何を誰に相談するかを毎回自分で一から調べたり考える必要もありません。
とにかく事業を伸ばすことに専念したい、バックオフィスをベストプラクティスを知っているプロに任せたいスタートアップ経営者の方は、WORK HEROを使っていただければと思います(WORK HERQのサービスページ)。
今回、スタートアップ創業者の婚前契約について、起業家・投資家・経営者・ビジネスパーソンなどいろいろな立場、性別の人に意見を求めました。パートナーが得たキャピタルゲインについて完全な権利放棄を当然のことだと回答した人もいれば、それは全くフェアではないという回答もありました。婚前契約が脳裏をよぎったものの、離婚の可能性という変数を減らせたいからあえて結ばなかった、という意見や、万が一離婚したら、そのときはどういう条件でもきれいに二等分で良いと考えている、という意見もありました。一方、多くの人に共通したのは、スタートアップで従業員が受け取るストック・オプションと同じように何らかの計算式で双方が納得できる落としどころがあるのではないか、ということでした。また、上場企業の社外取締役をしていてコーポレートガバナンスにも詳しい、ある女性経営者は「キャピタルゲインを離婚した配偶者に渡す理由などない」と100%信じている人がいることに対して「プライベートでの不誠実は経営者としての信頼感をなくすことになるのでは」という指摘をしていることも付記しておきます。古来、中国や日本で美徳とされてきた「糟糠の妻は堂より下さず」という言葉を噛みしめよという話かと思います。
そうしたもろもろの意見や前提の上で、専門家監修の上、WORK HEROが作成した最もシンプルな形での婚前契約書のテンプレートを以下に公開します。未公開株式については夫婦の共有財産から外す、ということを約する契約となっています。
繰り返しになりますが、婚前契約を結ぶのであれば、パートナーとなる2人が良く話し合い、その意味を理解した上で契約するのが大事です。
コーポレート・ガバナンスの観点で言えば、これは個人同士の話であると同時にスタートアップ業界にとって重要なテーマでもあります。きわめてプライベートな話であると同時に、業界全体で論点や実践が共有されていくことも大切です。今回の記事がそのきっかけになることを願っています。
回答者プロフィール
大坪誠(WORK HERO株式会社 代表取締役 / Founder)
東京大学経済学部卒業後、三菱商事に入社し、金属鉱山投資事業の予実管理、在英・在蘭特定目的子会社の記帳・会計・税務を含む管理業務、金属資源本部の投資戦略企画等に従事。その後、エムスリーキャリアの新規事業(薬剤師人材派遣事業)責任者として2年半でMRR(月次継続売上)を3億円超に成長させつつ、労働法・派遣法に準拠したバックオフィスも構築・管掌。2018年にWORK HERO株式会社を創業し、スタートアップ特化のオールインワンバックオフィスを提供している。
矢澤麻里子(Yazawa Ventures 代表取締役/ジェネラルパートナー)
ニューヨーク州立大学卒業後、BI・ERPソフトウェアのベンダにてコンサルタント及びエンジニアとして従事。国内外企業の信用調査・リスクマネジメント・及び個人与信管理モデルの構築などに携わる。その後、サムライインキュベートにて、スタートアップ70社以上の出資、バリューアップ・イグジットを経験した後、米国Plug and Playの日本支社立ち上げ及びCOOに就任し、150社以上のグローバルレベルのスタートアップを採択・支援。出産を経て、2020年Yazawa Venturesとして独立。
中村公哉(弁護士)
大阪大学法学部卒業後、司法試験合格ののち、弁護士登録。その後、スタートアップ向けの法律事務所にて多くのスタートアップ企業に対し資金調達やサービス設計など法的な観点から支援を行う。現在は独立して、スタートアップ支援を継続している(2021年12月時点)。
Partner @ Coral Capital