これまでソフトウェア・スタートアップは、主に企業における個人やチームの生産性向上のためのソフトウェアに注力してきました。要するに、ソフトウェアは実際に実務を行う「実務者」を支援するために作られてきたのです。ユーザー数に応じた価格設定が一般的であるのも、こうした背景から1人あたりの生産性向上効果でコストを正当化する価格戦略が適切とされていたからです。
しかし現在、LLMによってパラダイムシフトが起ころうとしています。インターネットの黎明期には、多くのウェブサイトが「オフラインの現実世界」に基づいて作られていました。例えば、街の看板に似た大きなバナー広告などがそうです。同様に、LLMを活用したプロダクトの多くも今はまだ「LLM以前の世界」を前提に作られています。実際、業務の生産性向上を重視した「Copilot for」系のプロダクトが次々と市場に投入されています。しかし、LLMにはもっと、既存のビジネスを根底から覆すポテンシャルがあるはずです。それこそ業務の段階的な改善ではなく、LLMによって「完成した仕事」そのものを提供することや、それによって従来のソフトウェア価格モデルから脱却することも可能ではないでしょうか。
実務者に「売る」のではなく、実務者に「なる」
「完成した仕事」そのものを提供することで、従来のソフトウェアでは参入が難しかった業界にもビジネスチャンスが開けるでしょう。この可能性について改めて考えるきっかけをくれたのは、BenchmarkのSarah Tavelが書いたAIスタートアップに関する記事です。同記事では、個人損害賠償の分野におけるEvenUpのユニークなアプローチについて紹介しています。個人が損害賠償請求を弁護士事務所に依頼した場合、請求に関する書類一式を弁護士やパラリーガルが作成するか、あるいは外注しなければなりません。多忙な弁護士たちの負荷となるこの業務に対し、従来であれば書類作成を支援するツールを提供するのが一般的でしょう。ところがEvenUpは、パラダイムシフトの可能性を見いだし、「完成した書類そのもの」を提供することを選択したのです。
LLMブームが起こる以前から、私たちVCはこうしたスタートアップのことを「フルスタック・スタートアップ」と呼んできました。「バリューチェーンの最初から最後まで一貫して自社で扱い、プロダクトやサービスを生み出す企業」と定義されています。実際、業界によっては既存の企業にツールを提供するよりも、直接エンドユーザーにサービスそのものを提供するほうが、より早くビジネスの成長と(マージンは低くなりますが)優れたサービスを実現できる可能性があると私たちも考えています。もちろん、Coral Capitalでは以前から「実務者の支援」を目的としたSaaS企業にも投資しています。しかし、それと同時に「実務者になる」ことを目指すフルスタック・スタートアップにも投資してきました。例えば貿易業務サービスのShippioや、不動産業のすむたす、保険のjustInCase、クリニック経営のCAPSなどです。
この「フルスタック・スタートアップ」としてのビジネスチャンスは、LLMやAIという新しいテクノロジーの波の中で飛躍的に増える可能性があります。まずは、企業がすでに業務を外注している分野からビジネスチャンスを探るのが良いでしょう。具体的には、BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)市場などです。AIを活用したソリューションであれば、その圧倒的な一貫性とスピードによる優位性はもちろんのこと、人的コストを完全にカットできるため、ソフトウェア並みに高マージンのビジネスモデルさえ実現可能かもしれません。さらに、コストの大幅な低下により様々な規模の企業でアウトソーシングの普及が進み、これまで外注が考えられていなかった業務も今後はアウトソーシングされるようになる可能性があります。
一方で、AIによって多くの人の仕事が奪われるようなことはなく、単純に既存の業務において人の能力を向上させるだけだと予想する人もいます。しかし、残念ながらそうはならないと私は考えています。実際には自動化が進んで多くの仕事が置き換えられたあと、新たな仕事が長期的に創出されるという展開になる可能性が高いでしょう。そして、かつて製造業主体の経済からサービス業種主体の経済へと移行したときのような大きな変化を私たちは経験することになるでしょう。短期的には多くの雇用が失われることも覚悟しなければなりません。フィリピンのように経済の10%近くをBPOが占めている国では、この変化は経済に壊滅的な影響を及ぼすかもしれません。一方で、高齢化が進む日本のような国の経済にとっては、この変化はむしろ「救世主」となる可能性があります。
このような劇的な変化は、スタートアップ機会も生み出します。どの分野で有望な機会が生まれるかについては、私自身もまだ考えているところですが、ブレインストーミングの際には次のようなマトリックスが役立つでしょう。大まかに以下の2つの軸に分ける考え方です。
- 自動化の容易さ:マニュアル化やルール化されている部分が多いタスクや、複雑な要素が少ないタスクほど、AIに置き換えられやすい。
- 現在のコスト:人間がそのタスクを行う場合のコストが高いほど、AIを活用したソリューションに置き換えるインセンティブが高くなる。
弁護士や会計士の仕事の多くは、明確なルールや手順が存在し、コストも高いため、真っ先にAIによる自動化の対象となるでしょう。私の予想では、簿記係やアソシエイト弁護士、パラリーガルの業務が最初に自動化されると思います。もちろん、まだ規制などもあり、人による対応が必要な部分も多いので、すべての業務が置き換えられるわけではありません。しかし、数人のパートナー弁護士の下で、大勢のアソシエイト弁護士がルーティン業務を担当する(そのため報酬も高額化する)という従来の弁護士事務所の構造は、今後大きな変革を迫られるでしょう。
自動化の容易さやコスト以外にも、次のような特徴を持つ業務が特にAIによる影響を受けやすいでしょう。
- 繰り返しが多く、細かいニュアンスの考慮が必要ないタスク:創造性やケースバイケースの判断がほとんど不要な仕事は、AIによって代替されやすいでしょう。
- 大量のデータ処理を必要とするタスク:膨大なデータの処理や分析は、AIの得意分野です。
- 結果が分かりやすいタスク:定量的に評価可能で、成功の度合いを測りやすい業務は、AIによって最適化・自動化しやすいです。
今後LLMやAIによって形作られる新たなビジネス環境に対応していく上で大切なのは、これらのテクノロジーが単なる生産性向上のツールではなく、様々な仕事やプロダクト、ビジネスモデルにわたって変革を加速させる「触媒」であると認識することです。この変革の中では、ソフトウェアエンジニアでさえも安泰ではありません。実務者にソフトウェアを売るビジネスモデルから、自ら実務者となるビジネスモデルへのシフトは、「タスクのサポート」だけではなく「タスクの完遂」まで求められる新しい時代の到来を意味しているのです。
Founding Partner & CEO @ Coral Capital