なぜ消防車は赤いの? 子どもにそう聞かれたら皆さんはなんと答えるでしょうか。緊急車両は目立ったほうが良いから……、赤は火を連想させる色だから……。私の認識はその程度でした。でも、視認性だけで言えば、本当は黄色や青、それも蛍光色のほうが良く、実際、1970年代の米国ではそれまで赤かった消防車の色を変えてみたこともあるそうです。人間の周辺視野では赤(や緑)の感度が落ちるため、特に夜間の視認性では赤より黄色のほうが1.24倍ほど良いという研究データに基づいて、専門家らが集まって色を変えました。視認性が上がれば交通事故が減るはずです。
ところが、消防車を赤から黄色に変えたら、むしろ事故が増えたというのです。長年の慣れから多くの一般ドライバーの間で「消防車は赤い」という刷り込みがあったから、と言われています。緊急車両は赤信号でも交差点に進入するなど一般車両と違う動きをするわけですが、その姿をパッと見て分かることは重要なのでしょう。逆に、消防車のように、色に関する刷り込みがなかった米国のスクールバスのほうは1939年にデュポン社など塗装剤の企業と、各州代表が集まって黄色に決めたそうです。
「多少良い」という程度では世の中は変わらない
私はこの話をテック系連続起業家でデューク大学で起業家教育の講師も勤めるAaron Dinin氏のブログで知りました。緊急車両(パトカーや消防車、救急車)は出動に際しての交通事故があると救命や消火が遅れて致命的になるばかりでなく、警察官や消防署隊員の方々の交通事故死は看過できません。車両デザインについては長年、議論が続いていて研究やデータが蓄積しています。やや古いですが、その総括として米消防局や米司法省などが協力してまとめた以下のレポート「FEMA:Emergency Vehicle Visibility and Conspicuity Study, August 2009」が包括的で興味深いです。
レポートによれば、クルマ社会の米国における警察官の勤務中の死因1位は交通事故。1996年から2008年の12年間に勤務中に死亡した消防士114人のうち29人は交通事故死。1992年から1997年の6年間に救急車の事故でなくなった救命隊員は67人を数えた、などとあります。またレポートには各国の緊急車両の色やデザインに関する議論も引用されています。例えば、現在もロンドンではパトカーや白バイ(白くはないですが)は以下の写真のように黄色と青のチェックの柄だったりします。
この話をブログにまとめたAaron Dinin氏は、消防車が赤のまま色が変わらなかった逸話について、起業家向けにこんな教訓を引き出しています。
起業家が課題に取り組む現実世界では、(実験室の科学的データのような)客観的なファクトは関係ない。それどころか、そんなもの存在すらしやしない。大切なのはターゲット顧客が何を期待しているかだ。
これは確かに良くある話で、特定の指標で客観的に良いものが普及するというほど世の中は単純ではありません。そもそも「より目立つ」ことと「事故が減る」ことの間を一直線につなぐのはナイーブで、上記のレポートでも、その関係性は自明ではないと結論付けられています。
QWERTYキーボードの配列も、誰にも変えられなかった
「消防車が赤」というのは、当初たまたま赤くしてしまったがために、後から変更すると事故が増えることになっただけで、最初から黄色だったら、今ごろアメリカでも日本でも消防車は黄色かったかもしれません。これは経済学者が言う経路依存性の問題にも思えます。
パソコンで使われるQWERTYキーボードも同様の事例です。英文タイピングでより良い配列であるはずのDVORAKキーボードや、かつてNECが開発した日本語ローマ字入力に有利なはずのM式キーボードが受け入れられなかったことも似ています。DVORAKは母音と子音が左右に分かれている上に登場頻度の高い文字が中段に集まっているため指がバタバタせず非常に効率が良いのですが(英語でも日本語でも)、いったん普及したQWERTY配列を市場で打ち負かすほどではありませんでした。日本語は英語と違って開音節言語と呼ばれる言語で、必ず音節が母音で終わる特徴があります。このため子音・母音を左右に分けると、ドラマーのように一定のリズムで右手と左手を動かす入力感になります。例えば「餌が」(esaga)をQWERTYで打つと左手ばかりの苦行ですが、DVORAKでは「左・右・左・右・左」」ときれいにバラけます。
1983年発表のM式キーボードも同様です。M式の着眼点は、日本語には中国語由来の語彙(熟語)が大量にあり、それらは「ou」「ei」(光栄:kOU-EI、営業:EI-gyOU)など特定の二重母音が多いのだから、それらを1打鍵で入力できるようにするというものでした。「ぎゃ」のような拗音も多いので「gy」もシフトキーを押しながらGを叩いて1打鍵です。つまりM式では「eigyou」は6打鍵ではなく3打鍵(EI-GY-OU)で済むのです。私はM式を自分の入力方式に取り入れて使っていたことがあって、慣れると確かに入力はラクなのですが、継続して使う労力(ソフトウェアの設定を頑張る)に見合うほどではありませんでした。
理屈から言えば、6打鍵より3打鍵のほうが良く、2倍も良いのだから利用者は喜ぶし、普及するだろうと思えます。しかし、現実にはユーザーの慣れの問題はとても大きかったということです。さらに、こうした「より良いものの提案」は、後になって「別の事実」が分かることもあります。タイピングの話でいえば、入力速度の限界を決めているのは、実は打鍵数ではなく、頭の中の発音速度のようだ、というものです。打鍵数を減らしても入力速度は大きくは変わらなかったのです。タイピングをしている利用者は、頭の中で入力している単語や文を発音しているようなのです。
QWERTYキーボードは配列としてはあまりにもひどいので、これを変えようという試みは山のようにありましたが、全て失敗しました。ちょっと配列を変える程度ではなく、日本語入力について、もっと根本から考え直した「親指シフト方式」や「直接漢字入力方式」のようなものもありました。かつて直接漢字入力方式の考案者、故山田尚勇氏(東京大学名誉教授)の講演を聞いた私は大変な感銘を受けたものですが、やはり普及しない理由がありました。
「法律で決まっているから」という回答に満足する人も?
ところで、「消防車が赤いのはなぜか」ということを日本語でいろいろと検索すると、また違う景色が見えてきます。東京消防庁の説明は「それは、『道路運送車両の保安基準』という運輸省令(昭和26年7月28日第67号)で決められているから」となっています。
皆さんは消防庁のこの説明に納得するでしょうか? 「雑学事典コーナー」に掲載された市民向けの読み物だから仕方ないかもしれませんが、私は「全く答えになっていない」と感じて驚きました。なぜ法律で赤に決めたのか、なぜ70年経過した今まで1度も変えずに来たのか、その合理的な理由が知りたいのに「法律で決まっているから」というのはトートロジーに思えたのです。
日本語で検索しても「消防車が赤い」ことの科学的根拠や議論は、どうも見つかりません。
日本交通学会の「視認性に優れた緊急自動車にするための検討会」からの報告資料を見ると、日米ともに有効性が認められている緊急車両への反射素材の貼付に関しても、きわめて慎重な議論が展開されていることが分かります。他のドライバーの視認性に対して悪影響があってはいけないということで当然かと思います。一方で、積み重なった歴史や、すでに動いている社会への影響も勘案して何かを変えようと思うと、現代日本社会はあまりにも成熟していて、とても大変なのだと改めて感じずにいられません。
起業家は社会変革の旗手です。なぜ消防車は赤いのだろうかと問い、もしより良いやり方があれば、それを社会実装せずにいられない人々だと思います。ただ、領域によっては変化を起こすのは本当に大変なことで「赤より黄色が良いのは科学的に証明されている」としても変えられるとは限りません。VCなど投資家が「既存のものより10倍良くなければ変わらない」というのは、まさにこうした事情があるからですし、変わらないように思える領域を変えてしまう起業家を尊敬してやまないのも同じ理由からです。
Partner @ Coral Capital