本記事は豊田菜保子さんによる寄稿です。豊田さんは、楽天など国内外の企業人事で人材・組織開発に従事したのち、フリーランスを経てスタートアップ支援プログラムの企画・運営に携わりました。現在は、グローバルテック企業の人事で組織文化の醸成を担当する傍ら、スタートアップの経営者やメンバー向けに人事領域の課題解決に役立つ記事を執筆しています。
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「キャリアの不安」の原因を見極める、3つのキャリア理論
自分のキャリア、このままでいいの?ーーそんな疑問を抱く瞬間があるのは、勤め先が大企業であれ、スタートアップであれ、極めて普通のことです。しかし、社員がキャリア開発に活用できる社内リソースの豊富さという点では、大企業とスタートアップには差があります。大企業であれば、社内公募による異動制度があったり、人事に人材開発の専門部署があって、個別面談やキャリア研修を提供していたりします。一方スタートアップでは、社内のポジションや制度も限られていますし、人事専任者がいたとしても、採用や労務に強みがある人で、キャリア開発についての知見や優先順位は高くないかもしれません。
こうした背景もあってか、スタートアップで働く人が「キャリア開発」の悩みを抱えると、社内で相談して配置や業務内容を調整しようとするよりも、他社への「転職」に意識が向きやすいのではないでしょうか? そして、なんとなく転職サイトや人材紹介サービスに登録すると、数多くのメッセージが企業やエージェントから届きます。自分のキャリアや市場価値への不安が大きいほど、スカウトや面接で評価されるのが嬉しくなるものです。気づいたら転職していて、給料は少しだけ上がったけど、またしばらくすると以前と同じような不安や違和感を抱く…といったリピート状況に陥ってしまいがちです。
転職はキャリア開発における1つの選択肢ですが、今の不安や違和感の原因を分かっていないままだと、なんら解決策にならないこともあります。起業家がリーン・スタートアップ理論を学んで、ビジネスモデルを可視化するリーン・キャンバスで分析してから事業を始めるように、キャリアを歩む人ならキャリア開発理論や、それらを活用した分析方法を知っておくと道しるべになります。
この記事では、キャリア開発に向けたマインドセットと、代表的なキャリア理論である「キャリア・アンカー理論」「計画的偶発性理論」「トランジション理論」をご紹介します。ぜひ、これらを参考にご自身の不安・不満の原因を見極めてから、社内外でのキャリア・チェンジを起こしてみてはいかがでしょうか?
LinkedIn創業者が勧める「スタートアップ型」キャリア開発
「こだわるべきか、柔軟であるべきか?
これもまた、偽りの二者択一。
柔軟に、こだわる。
あなたの価値観とミッションでリードする。ただし、適応できるよう柔軟であれ。」
キャリア開発を成功に導くにあたって、落とし穴になりやすいのが「OR」志向のマインドセットです。上記は、LinkedIn創業者のリード・ホフマン氏がTwitterに投稿したもので、事業のピボットを検討する起業家から聞かれそうな質問に対する答えです。しかし、少し考えてみると、日本のキャリア開発でよく登場する「山登り型キャリアか、川下り型か」という議論に通じるところがあります。
「山登り型」は、ゴールを定めてから逆算した行動を通じて達成を目指すタイプで、「川下り型」は、偶然や状況に身を委ねて柔軟にキャリアを展開するタイプを指します。同氏が提案している答えは、「A か B」のORマインドから、「A と B」のANDマインドに転換する重要性を示しています。
単純化された「OR」マインドではなく、複雑性をもつ「AND」マインドでの意思決定を重視する傾向は、同氏がキャリア開発について書いた著書『スタートアップ!シリコンバレー流成功する自己実現の秘訣』でも繰り返し見られました。この本では、これからの時代のキャリア開発は、シリコンバレー流のスタートアップ起業ノウハウから応用できることが多いとして、自らのキャリアを1つのスタートアップとして捉えるアプローチを提案しています。
例えば、キャリアに悩んでいる人がよく受けるアドバイスには、①好きなことをして生きろ(Follow your passion)②強みを生かせ(Play on your strength)③人や社会の役に立てるよう精進しろ(Be so good they can’t ignore you)、という3タイプがあります。同氏は、スタートアップの事業内容を決めるのに、①ビジョン・価値観(Aspirations & Values) ②強み・リソース(Assets)③市場分析(Market Realities)のどれが重要かという議論に例えて、答えはどれか1つ(A or B or C)ではなく、3つが重なる部分(A and B and C)にあるといいます。
単純化された分かりやすさに惹かれるのは、人間の本能です。しかし、ビジネスもキャリアも、同時並行で複数の導線が変化しながら動いていて、自然と複雑性を伴います。「好きなことだけして生きろ」「世の中で求められている職種は〇〇」といった単純化されたメッセージに従って意思決定をすると、バランスが崩れて持続可能性が下がってしまいます。事業にしても、キャリアにしても、後悔しない意思決定のポイントは、単純明快な「OR」の誘惑に負けず、複数の要素を総合的に判断する「AND」マインドを保つことです。
山登り型の「キャリア・アンカー論」
成長著しいスタートアップで働いていると、今まで経験したことのない仕事や役割を任されるのは日常茶飯事です。興味深いのは、エンゲージメントの上がる仕事内容や環境が、人によって全く違うことです。自分の専門分野以外の仕事を楽しめる人とそうでない人がいたり、他の社員が嫌がるような仕事が、任された本人には意外に面白かったり、逆に周りからは祝福されるような昇進・昇格で、本人の満足度が落ちてしまったりといったことが起こります。
こうした状況が起こる理由を説明するのが、MIT名誉教授のエドガー・H・シャイン氏が提唱した「キャリア・アンカー」という概念です。私たちは職業人として経験を重ねるごとに、①自分は何が得意/苦手なのか、②どんな目標があるとモチベーションが高まるか、③どんな組織を居心地が良いと感じるか、といったアイデンティティや自己イメージを形成していきます。
「アンカー」は英語で錨(イカリ)を意味しますが、こうした自己概念が、キャリアという潮目や荒波のなかで、自分という船がいるべき場所から流されないよう固定する役目を果たします。何を目指したいか、どんなことを大事にしたいのかというのは、人それぞれに違っていますが、それぞれの個人にとってはキャリアを通じて一貫性があるのです。
シャイン氏の研究結果から、キャリア・アンカーは下記の8種類に分類でき、それぞれを重視する人には「手放したくない機会」があることが分かりました。
- 専門・職能(Technical and Functional):専門性の発揮・向上
- 経営・管理(General Management):昇進・昇格、経営への参画
- 自律・独立(Autonomy and Independence):自己裁量、自由
- 保障・安定(Security and Stability):雇用の安定、老後の安心
- 起業家的創造性(Entrepreneurial Creativity):組織の構築、新規性、リスク
- 奉仕・社会貢献(Service and Dedication to a Cause):社会貢献、意義
- 純粋な挑戦(Pure Challenge):困難、挑戦、競争
- ライフスタイル(Life Style):プライベートや家庭とのバランス
例えば、大企業からスタートアップに【自律・独立】を求めて転職した人は、組織の成長やIPO準備等でルールが増えてくると、もっと自律的に動ける環境に移りたいと感じるかもしれません。一方で、同じく大企業からの転職組でも、【純粋な挑戦】が核であれば、ステージごとに最も困難な課題に取り組み続けるでしょう。また、CXOへの昇格は、相手が【経営・管理】志向であれば大歓迎されますが、【自律・独立】重視であれば自由が失われそうだと脅威になるかもしれませんし、【ライフスタイル】重視の人は仕事量の増加を懸念するかもしれません。
こうしたキャリア・アンカーは、本人が最初から気づいていることもあれば、経験を通じて見えてくることもあります。例えば、安定した家庭環境で育ち、新卒で大企業に入った人が、シード期のスタートアップに【起業家的創造性】を求めて転職したとします。すると、そこで初めて、自分にとって【保障・安定】の大切さに気づくかもしれません。この経験を通じて、「【起業家的創造性】は大事だが、【保障・安定】が最優先」と分かれば、ストックオプションを手放す代わりに給与アップの交渉をしたり、大企業の新規事業担当などのポジションに再転職を目指したり、社内外で【保障・安定】を高める策を検討すべきでしょう。
あなたの核となるキャリア・アンカーは、8つのうちどれでしょうか? 今のキャリアに漠然と不安・不満を感じていたり、仕事内容や役割の変化で働きがいを見失ったとしたら、あなたのキャリア・アンカー(=重視していること)と対立しているのかもしれません。課題が見えたら、今の会社の中で修正する方法がないか検討してみると、もしかすると転職よりベストな対応策が見つかるかもしれません。
川下り型の「計画的偶発性理論」でチャンスを生かす
スタンフォード大学の卒業スピーチに登壇したMetaの元COOシェリル・サンドバーク氏は、彼女の大学卒業時にMeta CEOのマーク・ザッカーバーグ氏が小学生だったことに触れ、「キャリアはまっすぐ上に登るハシゴではなく、驚きやチャンスに満ちたジャングルジム」と語っています。彼女の経験が示すように、変化の激しい時代には、世の中の大きな流れに乗りながら、偶然をチャンスに変えてキャリアを展開することが求められます。
米国スタンフォード大学教授のジョン・D・クランボルツ氏は、ビジネスで成功した人を対象にした調査結果から「計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」という概念を提唱しました。これは、「個人のキャリアの8割は、予想外の偶発的な出来事によって決定される」という考えに根ざしており、いわゆる「川下り型」のキャリア理論です。この理論では、偶発的な出来事からチャンスを作り、認識し、掴みとるために、下記5つのスキルを発揮するよう推奨しています。
- 好奇心:新しい学びの機会を探求する
- 粘り強さ:挫折しても努力すること
- 柔軟性:考え方や状況を変化させる
- 楽観性:新しい機会が可能であり、達成できると考える
- リスクテイク:不確実な結果に直面しても、行動を起こすこと
今のキャリアに違和感があるとして、その理由を考えたときに「当初のキャリアプランと違う」「親や幼い頃の自分が夢見た仕事ではない」といった想いがあれば、少し視野を広げて考えてみましょう。今のあなたの仕事は、親世代や10代のあなたでは、想像さえできなかったかもしれません。あなたが好奇心、粘り強さ、柔軟性、楽観性を発揮し、リスクをとって行動してきた結果、想定よりチャンスが広がってきた証拠ともいえます。現時点で流れを断ち切るべき絶対的な理由がなく、むしろ流れに乗っていくことにワクワクするのであれば、しばらく身を任せてもいいのではないでしょうか?「流されている」というと受身に感じますが、これも「主体的なキャリア開発」の1つのアプローチです。
変化に適応する「トランジション理論」
山登り型にしても、川下り型にしても、キャリア開発というのは「変化」の連続です。この「変化」には、チェンジ(Change)とトランジション(Transition)という2つの英単語が存在します。前者は、事実や状況の変化を指し、後者はそれに適応するための心理的なプロセスを意味します。例えば、大企業からスタートアップに転職するのはチェンジですが、新しい環境に慣れるために不安や葛藤を乗り越える過程はトランジションといえます。
この過程に注目して「トランジション理論」を提唱したのが、米国の心理学者であるウィリアム・ブリッジス氏です。この理論では、状況の変化に伴って、個人の内面で起こる心理的な変化を、「何かが終わるとき(終焉)」→「ニュートラル・ゾーン(中立圏)」→「何かが始まるとき(開始)」の3段階で捉えます。トランジションを成功させるには、各段階で心理的な課題を解決することが重要です。
例えば、転職するときの「終焉」は、前職を辞めることです。それまで構築してきた人間関係、業務プロセス、チーム、職場環境など、そのほとんどを手放すわけですから、どんなにポジティブな理由での転職であっても、心理的には喪失感があって当然です。ここを去ることで、何が終わるのか、何を残していくのか、何を次のキャリアに持っていくのか、しっかりと認識して、手放すべきは手放すことで次に進むことができます。
次にやってくる「ニュートラル・ゾーン」は、トランジションの中で最も重要なプロセスです。これは『会社を辞めて「ぷらぷらする」期間が良い投資である4つのワケ』という過去の記事にも通じますが、古いものがなくなって、新しい始まりに向けた種まきを行う中間の時期です。「何者でもない自分」に向き合う不安や恐怖感を覚えつつ、それまでの延長線上にある現実やアイデンティティとは違うパターン認識が起こり、新しい自分のあり方が生まれる余地を生み出します。
トランジションの最後に訪れるのが、「開始」のプロセスです。慣れるまで戸惑いがあるものの、自分の新しいミッション、考え方、価値観、態度を身につけていきます。エネルギーがこれまでとは違う方向に放出され、フレッシュなアイデンティティを表現している自分に気づきます。「終焉」の過程で古い自分の大部分を手放し、ニュートラル・ゾーンで認知的・心理的な調整をしたからこそ、新しい自分を創り出すことができるのです。
どれだけ正しいキャリア選択をしても、心理的なトランジションが不十分だと、「以前の方が良かった」と過去の喪失感にしがみついたり、新しい職場で自分のあり方を更新できず、「自分には向いていない」と感じてしまうことがあります。この状態で再度転職しても、同じ課題を抱えてしまうかもしれません。過去の現実やアイデンティティを今の仕事に不必要に持ち込んでいないか、以前の仕事と新しい仕事の間にいる「何者でもない自分」を受け入れられたか、新しい職場で自分のアイデンティティ表現が変わっていくことに抗っていないか、と考えてみると未解決な心理的課題が分かって解消できるかもしれません。
納得度の高いキャリアを、主体的に構築しよう
この記事では、キャリア開発におけるANDマインドの重要性と、キャリアカウンセラーも学んでいるキャリア開発理論の中から、代表的な3つをご紹介しました。今あなたが抱える漠然とした不安・不満の解像度を上げて、あなたに必要な変化を具体的に把握すれば、より納得度の高い結論にたどり着けるでしょう。それは、今の仕事に新しいマインドで取り組むことかもしれませんし、社内での異動や新ポジションの設置を提案することかもしれません。他の会社に転職する場合もあるでしょう。
いずれにしろ、キャリアにおける行き詰まりを、会社のせいにできる時代は終わりました。キャリア開発の理論やフレームワークを知ることは、次世代のプロフェッショナルとしてのエンパワーメントに繋がります。それは、リーン・スタートアップの本を読んでから起業するか、ゼロから試行錯誤するのかと同じくらい差があるのではないかと思います。
また、友人や知り合いに相談することもあるかと思いますが、スケール志向のスタートアップを起業するときに、近所のパン屋さんにビジネスモデルを相談しないのと同じことで、相手は慎重に選びましょう。多少の費用はかかりますが、キャリアコンサルタントやコーチを雇うのもいいかもしれません。使えるノウハウやリソースはどんどん活用して、あなた自身の価値観を基準にして、納得度の高いキャリアを開発していきましょう。
Contributing Writer @ Coral Capital