日本の株式市場に対してよくある批判のひとつが、新規株式公開(IPO)の要件が緩すぎることです。実際、日本では、米国のシリーズBやC段階に相当する売上規模や企業価値の企業でも上場が可能です。このハードルの低さが、企業に時期尚早な上場を促し、長期的な成長を妨げている可能性があると指摘されているのです。AirbnbやInstacartといったシリコンバレーのスター企業が上場までに10年以上を要した例を引き合いに出し、米国の上場基準を見習うべきだとする意見も多く見受けられます。
こうした指摘には一理あるものの、単純化されすぎている面もあります。米国と日本の上場環境について議論する際には、両国の背景や歴史を踏まえて考えることが重要です。
歴史的背景:米国のIPO環境
現在の上場環境を理解するには、まず2000年代初頭より前の米国のIPO環境を振り返る必要があります。今と違い、当時は有望な企業が創業から数年で上場することが珍しくありませんでした。
代表的な例:
- Amazon:1994年創業、1997年上場(3年後)
- Netscape:1994年創業、1995年上場(1年後)
- eBay:1995年創業、1998年上場(3年後)
このように短期間で上場することがあまりにも一般的であったため、株式の権利確定期間(ベスティング期間)もその前提に基づいて業界標準が形成されました。従業員ストックオプションのベスティング期間が一般的に4年間とされているのも、そのためです。
米国の規制変更と市場の変化
2000年代初頭に、米国のIPO環境は大きく変化しました。
- 規制環境の変化:2002年に施行されたSOX法により、厳格な財務報告とコーポレートガバナンスの要件が導入され、IPOはより複雑かつコストのかかるものとなりました。
- 未上場市場への資金流入:同時に、未上場市場へ資金流入が大幅に増加しました。この変化により、企業は上場せずとも多額の資金を調達できるようになりました。
これらの要因が組み合わさることで、企業がより長く未上場のままでいることが可能な環境になり、実際に多くの企業がその選択肢を取るようになりました。その結果、米国の上場企業数は1990年代の8,000社以上から、現在では4,000社強にまで減少しています。
この上場傾向は、さらに2つの副次的な影響をもたらしました。まず、大きく成長してから上場する企業は、小口投資家にとって手が届かない存在となり、その莫大な利益は主にプロの投資家だけが享受するものとなりました。また、株式の流動性が確保されるまでに時間がかかるようになり、創業初期から貢献してきた従業員や投資家、そして彼らを支えるLP投資家にとってやっかいな問題となっています。もちろん、流動性のニーズに応えるためにセカンダリーマーケットも発展してきましたが、その流動性は上場市場には到底及びません。
日本の状況
日本では、こうした変化が米国ほど大きく進んでいません。比較的ハードルの低いIPO市場が維持されており、現在の米国基準と比べて企業が早期に上場することが可能です。このIPO環境には、長所と短所の両方があります。
株式公開というのは結局のところ、流動性を確保する手段であると同時に、資金調達の仕組みでもあります。日本の企業は、より早い段階で、より大規模かつ多様な資金源にアクセスし、それを事業の成長や拡大に活用することができます。また、初期の投資家や従業員が持分を売却しやすくなることで、優秀な人材や新たな投資を呼び込む効果も期待できます。上場により企業の知名度や信頼性が向上し、事業開発や他企業との提携において有利に働くことも多いです。さらに、日本の上場モデルでは、小口投資家も早い段階から有望な企業に投資し、その成長の恩恵を受けることができます。
早期上場に反対する意見にも一理ありますが、それがすべての企業にとって上場を避ける決定的な理由になるわけではありません。確かに、上場には多くのコストや労力がかかり、企業にとって負担になることがあります。しかし、上述のメリットに加え、組織の規律や説明責任の強化にもつながるという利点があります。また、小規模な上場企業には機関投資家の関心が集まりにくいという指摘もありますが、今ではかなりの数の機関投資家が上場・未上場を問わず投資を行うため、この点は上場の有無にかかわらずあまり変わりません。そして、上場による流動性が限定的だという懸念も確かに一理ありますが、それでも未上場でいるよりも高い流動性を得られるのは間違いありません。
「IPOは成長の妨げになる」という見解もありますが、以前の記事でご紹介したように、日本のIPO市場はこれをくつがえす多くの成功例を生み出しています。弊社の調査では、2011年から2021年の間に上場した企業のうち、後に企業価値が10億ドルを超えた「隠れユニコーン」を41社確認しています。これらの企業の創業からIPOまでの平均期間は6.8年で、これは米国におけるシリーズBまたはCの資金調達ラウンドが行われる時期に相当します。 また、これらの企業が企業価値10億ドルに達するまでの期間は創業から約8年であり、これは世界のユニコーン企業の平均的な成長スピードとほぼ一致しています。
早期上場に対する批判は、その独自のメリットを十分に考慮していないことが多いようです。たとえば、より多くの資金へのアクセスや、初期ステークホルダーに対する持分の流動性の確保、小口投資家でも企業の成長から恩恵を受けられる点などが挙げられます。さらに、日本がこれまでに数々の「隠れユニコーン」を生み出してきた実績は、早期上場が必ずしも企業の長期的な成長を妨げるわけではないことを示しています。これらを踏まえ、日本は米国の上場モデルを模倣するのではなく、独自のアプローチをさらに洗練させるべきではないでしょうか。比較的ハードルの低いIPO市場を活用しつつ、未上場市場に新たに流入している資金も効果的に取り込むのです。それぞれの企業の状況に応じて、上場市場または未上場市場での資金調達を柔軟に選択できる環境こそ、スタートアップ企業にとって理想的だと言えるでしょう。
Founding Partner & CEO @ Coral Capital