本記事はTemma Abe氏による寄稿です。Abe氏は東京大学経済学部を卒業後に新卒で三菱商事に入社。2016年からのアクセンチュア勤務を経て、2019年からは米国西海岸に在住し、UC BerkeleyのMBAプログラムを経て、シリコンバレーで勤務しています。現地テック業界で流行のニュースレターやポッドキャストを数多く購読しており、そこから得られる情報やインサイトを日本語で発信する活動をされています。
企業の清算・採用抑制・レイオフ・ダウンラウンド・経営陣の売り逃げなどの話題が尽きない昨今の米国テック業界ですが、このシリーズはそんな中でも好調または攻勢を見せているスタートアップを紹介する試みです。
これまで私は、クリエイターエコノミー・自動運転タクシー・ARR取引プラットフォームなど、世の中で注目され巨額の資金も集まっている分野に対してクリティカルに分析する記事を書くことが多かったですが、ダウントレンド全盛の時代になってしまった今では、逆にポジティブにスタートアップや関連テーマについて紹介したくなった、というのが個人的なモチベーションです。
さて、今回取り上げるのは、SaaS Management Platform(企業が導入するSaaSコストの削減を支援するSaaSプロダクト、以下SMPと呼ぶ)です。
1. 資金調達市場の冷え込みや不景気への備えから、あらゆる企業においてコスト削減圧力が高まっている
昨今の米国テック業界において、コスト削減はあらゆる領域で行われています。最近だとAmazonがリテール部門の採用停止を発表しましたが、採用抑制やレイオフのニュースは従業員の生活や雇用に直接関わるものなので、特に話題になりやすいです。また、企業がマーケティング費用を抑えつつあることは、FacebookやSnapといった広告を収益源とする企業の業績低迷からも明らかです。さらに、従業員に手厚い福利厚生を提供することで有名だったGoogleですら、緊急性のない出張やチームのイベントの禁止を発表しています。同様にMicrosoftも出張を制限する方針を出しています。
さて、この記事で取り上げるコスト削減は、ニュースや決算発表で取り上げられるような目立つものではないものの、近年は無視できない規模の費用項目として大きくなってきている、SaaSプロダクトの費用削減についてです。
2. SaaSビジネスの爆発的な成長に伴い、顧客企業がSaaSプロダクトを管理しきれなくなっている
ある用途に特化した使いやすいUIのSaaSプロダクトが次々に登場し、ユーザーから支持を得て売上を伸ばしてきているのは、周知の通りだと思います。
- Enterprise ID Managementを提供する(=企業が利用しているSaaSプロダクトを熟知している)Oktaのレポートによると、企業が導入するアプリの数は、全体平均で88個、テック企業平均で155個、大企業平均で175個となっており、直近4年でもアプリの数は20%程度増加しているとのことです。
- Gartnerによれば、2022年のSaaSの世界市場規模は約21兆円($145Billion)で、年率10%以上の成長が見込まれています。
その一方で、購入されたSaaSプロダクトを企業のユーザーが実際にどれだけ有効活用できているのかというと、驚くべき数値を発表しているレポートがあります。
- Garterが2020年に発表したレポートでは、SaaSサブスクリプション契約を十分に有効活用している(有効活用できていない割合は0%)と回答したCIOは全体の1割にも満たなかったとのことです。つまり、ほぼ全てのCIOは少なくとも何かしら無駄なSaaS契約が存在していると認識しているということです。
- Productiv社のリサーチはさらに衝撃的な数値を発表しています。いわく、各種SaaSプロダクトのライセンスを保有している企業ユーザーのうち、定期的にアプリを利用しているのは平均45%のみである。また、54%のツールはShadow IT(ITシステム部門を通さずに購入・利用されている状態)であるとのことです。
- 前出のOktaのレポートから関連データを引用すると、Microsoft 365(Microsoft Teamsを含む)を契約している企業のうち、42%がZoom、32%がSlack、26%がBoxを並行して契約しているとのことです。つまり、同様の機能・価値を提供するはずのSaaSツールを重複して契約している企業が少なからず存在するということです。
3. SMPスタートアップによる資金調達が続いている
2022年はダウンラウンドなど資金調達に苦しむスタートアップが出てきています。そうした中、企業が導入するSaaSコストの削減を支援するSMPプレイヤーは不況の波に乗り、大型の調達も含めて活発なアクティビティが見られます。以下では、直近1年の間に数十億円以上の資金調達をした企業をサンプルとして紹介します。
なお、この記事の趣旨はプロダクト比較ではなくトレンド紹介なので、当該領域のプロダクトについて詳しく調べたい方は、比較サイトなどを参照ください。私が初期的なリサーチした限りでは「コスト削減額保証」などを除いては、プロダクトの差別化要素は明確には分からなかったので、以下では主に、解決したい課題・マーケットオポチュニティについての経営陣や投資家からのコメントを引用して紹介します。
Vendr:2022年6月にシリーズBで$150M(約218億円)を調達
- 平均20~30%のコスト削減を実現(見積もりに応じた一定のコスト削減を保証)
- 「SaaSの価格は大きく変動するため、その価格が適正かどうかを判断するのは困難です。価格設定は、購入時期や購入企業の格(ブランド)、担当営業に左右される。成長するにつれ、スケールメリットはますます難しくなり、価格設定モデルも予告なしに変更されます」(参照)
- 「ソフトウェアの購買プロセスは分散化されているか、存在すらしないため、非常に長い販売サイクル、隠れた支出、セキュリティリスクなどの問題を起こしている。さらに、プロセスが確立されていないため、過去のソフトウェアの購買やトータルの支出に関するデータを把握することができず、将来の交渉力に繋がらない」(参照)
Torii:2022年2月にシリーズBで$50M(約72億円)を調達
- 無駄なライセンスに費やされる数百万ドルや、マニュアル操作に費やされる数百時間を削減
- 「SaaSの爆発的な普及は、現時点ではカオスと呼ぶにふさわしい状況になっています。従業員はそれぞれの自宅で好き勝手な方法で働くようになってきており、それを管理することは不可能です」(参照)
- 「ここ数年、SaaSの導入が爆発的に増えています。今では、単なるソフトウェア管理の問題ではなく、利害関係者の管理の問題、というところまで来ています。Toriiは分散化したSaaSの世界の可視性を集権的に管理するために設計されています」(参照)
Tropic:2022年2月にシリーズBで$40M(約58億円)を調達
- 平均23%のコスト削減を実現(見積もりに応じた一定のコスト削減を保証)
- 「従来、調達活動はレガシーのツールが主流になっており、ソフトウェアではなくハードウェアを対象として設計されていました。しかし、ソフトウェアにおけるニーズが驚異的に増加し、市場がキャッチアップしてきました」(参照)
- 「購買活動はコストセンターという範囲に留まる必要はなく、購買活動に費やす時間を短縮し、誰もが正しいツールを使えるようにすることは、トップラインドライバーにもなり得ます」(参照)
4. とはいえSMPはニッチな領域であり、より広義のEnterprise Spend Management系のプレイヤーとの戦いも想定される
上記の通り、SMPが成長領域であることは間違いありませんが、より広義のEnterprise Spend Managementの領域はさらに市場規模が大きく、Brex、Ramp、Tripactionsなど複数の巨大スタートアップが登場しています。その資金調達の規模は、各社ともに累計で$1Billion(約1,450億円)を超えており、SMPとは平均して10倍以上の差があります。
そして、そんな中でも急成長をしていると言われるRampは、SMPと競合し得るプロダクトを出しています。同社のウェブサイトには以下の記載があります。
- 最大27%のコスト削減を実現
- ベンダー、サブスクリプション、契約を1つのダッシュボードで管理
- お客様の契約を1,000以上の顧客と比較してベンチマークし、最適な価格を提示
- 購買活動のエキスパートが契約交渉をサポート
同ページに登場するベンダー名もTwilio、HubSpot、Latticeなどとあり、SaaSコスト削減を彷彿とさせるものとなっていることから、SMPプレイヤーとの競争を意識していると推測されます。
さて、繰り返しますが、この記事の趣旨はプロダクト比較ではないですし、例えばRampとVendrについてApple to Appleで優劣評価することは難しいですが、Rampのようなコーポレートカードを提供するEnterprise Spend Managementのプレイヤーの強みとしては、以下が挙げられます。
- 決済システム・データと紐づけることが簡単にできる
- 収益の源泉は決済手数料で、SaaSコスト削減サービス自体には費用がかからない可能性がある
2つの領域ともまだ成長余地がありそうですが、個人的には、Enterprise Spend Managementのプレイヤーによる、SMPのプレイヤーの買収があってもおかしくはないのではないかと思います。
5. SMPがSaaSプロダクトの売り方に与える影響は?
上記で紹介したトレンドは、当然ながらSaaSプロダクトを売る側にとっては好ましいものではありません。契約締結までにかかるセールスサイクルの長期化の傾向が既に出てきているのに加えて、SMPはリテンションの低下・チャーンの上昇に繋がる可能性があります。
不景気でセールスが厳しくなるというのはある意味当たり前の話ですが、個人的により着目したいトレンドは、SaaSスタートアップで一般的になったボトムアップ型のグロースへの影響です。ボトムアップ型とは、各種エンドユーザー(マーケター・デザイナー・PdM・デベロッパーなど)が、それぞれの業務に役立つSaaSツールを無料版から草の根で使い始め、それがチームや社内で普及することで、最終的にエンタープライズ契約に至る、というような売り方を指しています。Product-led-Growthも同様の概念だと理解しています。
一方で、SMPが象徴するのは、ITやファイナンスなどのコーポレート部門が社内で利用されるツールやベンダーをしっかりと把握して、一元管理・集権化のガバナンスを利かせよう、という運動です。そして、コスト削減だけではなく、セキュリティやコンプライアンスの観点からもこの動きを正当化する圧力は強くなります。これまでは野放しになっていたケースも少なくないボトムアップ型のツール導入プロセスへの監視の目が強まることになりそうです。
また、SaaSプロダクトのプライシングの観点では、サブスクリプション型から従量課金型の流れがさらに強まるかもしれません。この記事で紹介したSMPが主にターゲットとしているのは、サブスクリプション型でユーザー数に応じて課金されるモデルが生み出す無駄です。契約形態が従量課金型であればそのような無駄はそもそも発生しません。
このように、景気後退に伴う企業のコスト削減圧力の高まりと、SaaSツールの中央集権的な管理のトレンドの中で、SaaS企業のグロース戦略・プライシング戦略がどのように変化していくかにも注目です。
[米国スタートアップ冬の時代の注目企業の過去記事]
第1回:Scale AI
第2回:Airbnb
第3回:DoorDash
Contributing Writer @ Coral Capital