先日、あるイベントのパネルディスカッションでご一緒したnote創業者の加藤貞顕さんの指摘にハッとしました。日本の豊かな出版文化を支えた「出版取次」は、クリエイターたちがコンテンツを作ることに集中できるためのファイナンスの機能を担っていた、という指摘です。
出版業界関係者は単に「取次」(とりつぎ)と呼びますが、日販やトーハンといった取次と呼ばれる業態の企業は日本独自の存在です。出版社から書籍や雑誌の納品をまとめて受けて書店へ卸す、小売で言う流通業者です。特殊なのは委託販売制度という制度があるところです。書籍を作る出版社が初版2,000部の本を一気に刷って取次に納品すると、それが取次を通して全国の書店に並ぶわけですが、このとき出版社は取次から販売代金を前払いで受け取ります。取次は過去の市場分析から、どのジャンルの本が、どの地方のどの書店で何冊売れるかといったデータに基づいて、出版社側の取次担当営業とバチバチやりながら初版部数を決めたりしています。
つまりビジネスとして見ると売れ残りのリスクを勘案しつつコンテンツクリエイターたち(出版社と、そこにできた編集者・著者のエコシステム)に、売れる前に市場予測に基づいた販売代金を渡すというファイナンス機能も果たしていたのが取次で、この存在があったために日本の出版エコシステムで多様なコンテンツが花開いたのだ、ということです。取次のおかげで(お金に興味のない人が多い)クリエイターたちがコンテンツ作りに専心することができました。他方、小売業者である書店は在庫リスクを負わずに売れ残った本を返品できる制度もあります。
noteの加藤さんはアスキーやダイヤモンドといった出版社を経て2011年にnote(創業時の社名はピースオブケイク)を創業しています。このとき考えていたのは、2011年当時のネットにはバナー広告程度しかマネタイズ手段がなかったクリエイターたちに必要なのはファイナンスの機能だ、ということだそうです。その欠けているピースを埋めるプラットフォームを自分が作らなければ、誰も作らない、すると豊かだった出版文化がネットによる変容の波に対応できずに失われてしまう、との思いで起業に至ったと言います。加藤さんは敏腕編集者として累計発行部数280万部を記録した『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(岩崎夏海)や『マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝』など多くのベストセラーを手掛けた出版人としての顔に加えて、かつてLinuxカーネルに取り込まれたパッチがあるというほどコンピューターに詳しいことから、やるのは自分しかいないと考えたそうです。
ファイナンス機能がないと豊かなエコシステムにならない
日本に限らず、紙の出版は長期低落傾向が続く苦しい業界ですが、加藤さんと同じ出版社からキャリアをスタートした私は常々、日本の出版文化の多様性とクオリティーは英語圏以上のものがあるのではないかと感じていました。
情報の編集能力や丁寧さ、レイアウトなど、どれをとっても英語圏の書籍・雑誌は日本の出版レベルから見ると「雑」ですし、知識欲旺盛な学生やビジネスパーソンが読むべきコンテンツ、専門家が読むコンテンツの豊富さなどでも英語圏より上ではないかと思います。趣味の情報誌や実用系書籍のまとまり具合も、本当に素晴らしいものがあります。逆に英語圏のほうが層が厚いと思うのはトップ・オブ・トップのインテリが書いたり読んだりする「書物」というニッチ市場くらいかもしれません。
日本の出版のレベルが高いということを裏返して言えば、起こるべき人材移動が起こってないと考えられます。多様なタレントを柔軟に組み合わせてコンテンツを生み出すプロデューサーが編集者だとすれば、こうした適性や才能を持つ人々は出版不況にあえいで出版社にとどまっている場合ではなく、デジタルの世界に来ていて良いはずです。例えばテック系企業のプロダクト・マネージャーや、D2Cのデジタルマーケ担当に転向しても良いはずです。実際、出版出身の私の元同僚でもAmazonや楽天など大手ECサイトやアプリストアなどに移籍して活躍している人は少なくありません。ただ、労働市場の流動性の低さから大移動と言えるようなものではなく、出版業界が苦境にあえぐ一方で、デジタル系の人材不足が深刻化しています。
2021年の今も日本の書籍市場の多様性と深みは素晴らしいものがありますが、そのクリエイターたちが作るエコシステムはDXできていません。それはネット上にコンテンツ・エコシステムを支えるファイナンスの機能がないからで、noteでそれを作っているというのが加藤さんの指摘でした。最近では「クリエイターエコノミー」という言葉でまとめられるようになりましたが、その本質はコミュニティーに決済やファイナンス機能が付いたものなのでしょう。どんな世界にもクリエイターは少数ながら一定数いますから、今後ネット上のコミュニティーには全て、決済やファイナンスなどFintech的な機能が実装されていくことでしょう。
同様の議論がスタートアップにも成り立つと思います。未来を創る起業家や、テクノロジーを使ってDXを進めるビジネスのクリエイターが活躍する豊かなエコシステムのためには、ファイナンス機能の充実が欠かせません。今あるVCのような姿だけが正解だと言う気はありませんが、米国はもとより、世界中で急速に伸びるVCマネーの規模を見ていると(下図参照)、北米の何十分の1という規模感の日本のVCマネーでは、まだ日本のスタートアップ起業家や、その予備軍というエコシステムのポテンシャルを全く開放できていない、と思えるのです。
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