ゴールドマン・サックス証券で日本副会長やチーフ日本株ストラテジストを務めたキャシー松井さんが2021年5月、金融業界で活躍してきた女性3人で新たなベンチャーキャピタル「MPower Partners」を立ち上げました。160億円規模のファンドは、投資先内外のスタートアップにESG(環境・社会・企業統治)への取り組みを求めるのが特徴です。
松井さんは1999年、女性の活躍を推進することで経済を活性化することをうたった「ウーマノミクス」の生みの親としても知られています。この提言は政策にも影響を与え、女性就業率を大きく引き上げるきっかけとなりました。1999年当時、わずか56%だった女性就業率は、2020年には71%にまで上昇しています。
「ウーマノミクス」の生みの親が、日本で前例のないESG重視型のグローバルベンチャーキャピタルを立ち上げたきっかけはなんだったのでしょうか。また、大企業と比べてリソースが限られるスタートアップでも、なぜESGに取り組むことが重要なのでしょうか。MPower Partnersゼネラル・パートナーのキャシー・松井さんに、Coral Capitalではポッドキャストのインタビューを行いました。
なお、インタビューのノーカット版を英語によるポッドキャストでお届けしています。ポッドキャストは、Apple Podcastsか、Google Podcasts、またはSpotifyからお聞きいただけます。
- ゲスト:MPower Partners ジェネラルパートナー キャシー松井氏
- 聞き手:Coral Capital創業パートナーCEO James Riney、同パートナー兼編集長 西村賢
The Coral Capital Podcastでは海外の投資家・起業家へのインタビューを今後も予定しています。Apple Podcastsのリンクか、Google Podcasts、またはSpotifyのリンクから、ぜひフォローしてください。
「日本はもったいなかった」ウーマノミクスに注目したきっかけ
James:Coral Capitalのポッドキャストへようこそ。
キャシー松井:お招きいただきありがとうございます。
James:キャシー松井さんといえば女性の活躍を推進して経済を活性化することをうたう「ウーマノミクス」の提唱者としても広く知られています。1999年に発表したレポートは政策にも影響を及ぼしました。このレポートを書くことになったきっかけについて教えてください。
キャシー松井:まず当時の状況から少し説明したいと思います。私は1990年から日本株ストラテジストとして働き始めました。国内外の機関投資家に日本株への投資についてアドバイスする仕事です。日本に投資すべきかどうか。もし投資するとしたら、どの業界の投資を増やし、減らすべきかといったことを助言します。
ただ、私が働き始めたタイミングは最悪でした。バブルが崩壊して好景気が終わったところだったのです。就職して最初の年に日経平均が確か40%くらい落ちました。それを見て「この仕事を選ぶとは、なんて私はバカなの」と思ったものです。それに下落は40%で止まらず、1990年代の間どんどん下がり続けました。
金融システムは大荒れで、経済は低迷している。デフレも始まった。政府は大量の財政刺激策で経済を救おうとしているけれど、それは納税者のお金でどこにもつながらない橋をつくろうとしているようなものでした。また人口動態の先行きもよくありません。「この状況でなぜ日本に投資する必要があるのか教えてほしい」と毎日のように海外の顧客から質問が来ていたのです。それが当時の私の仕事における状況でした。
プライベートでは1996年に息子が生まれ、4カ月のゴールドマン・サックスの標準的な産休を取得しています。産休が明けてすぐにフルタイムの仕事に戻りました。ただ、周りを見渡すと奇妙なことに気づいたのです。産休期間中、ママ友たちと仲良くなりました。中には仕事から完全に退き、専業主婦になった日本人女性もいます。それはそれで素晴らしい決断です。一方で、私のように仕事に復帰したいけれど、さまざまな理由で戻れない友人たちも多くいました。
そこでキャリアとプライベートで起きている事象について考えたのです。投資家は「日本に投資すべき理由は?」と聞いています。一方で、私よりはるかに才能があって賢い女性たちが仕事に戻っていない、あるいは戻りたいのに戻れない状況がある。これは純粋に「もったいないな」と思ったのです。
私はアナリストで数字を扱うのは得意ですから、女性の就業率が変わるとどうなるかを計算してみました。当時、働いている日本女性の割合は、先進国の中ではかなり低かったんです。その低い就業率が日本人男性の就業率と同程度になったら、経済にどのような影響があるのか。当然ながら、男女の就業率の差は非常に大きかったので、女性の就業率が高まれば日本のGDPは高まることが予想されました。
James:「マラソンを片足で走るようなもの」というようなことをおっしゃったんですよね。
キャシー松井:その通りです。結局のところ先進国でも新興国でも、成長ドライバーは3つしかありません。人材、資本、生産性です。たったこれだけです。ご存知のように、日本政府の予測では2055年までに労働人口は最大40%も減少すると言われています。非常に大きいですよね。これはつまり生産性の面で革命的なイノベーションを起こすか、大量の資金が空から降ってくるようなことがない限り、人口減少による成長の鈍化は避けられないことを意味しています。
そこで私は人口動態に注目したのです。先ほども話したように、私個人の経験から、別の道があるに違いないと思っていました。
また私は当時から今までの30年のキャリアの中でずっと、日本株のストラテジストとして働いていました。女性で唯一のストラテジストです。おかしいと思いませんか?これまで私のチームは、ずっと人数の多い野村、大和、日興などの日本人男性のチームと競争してきたのです。強力なライバルに対抗し、勝つ方法を考えなければなりませんでした。そして私のライバルである日本人男性たちがこのテーマについて書くことはないだろうと考えたのです。だから、このレポートは私が他と差別化するためのものでもありました。
ウーマノミクスで政府の意識に変化。「女性の活躍」が成長戦略の中核に
James:「ウーマノミクス」という言葉を提唱してからの数十年で変化を感じていますか?
キャシー松井:23年前に報告書を公開したとき、海外のクライアントからはポジティブなフィードバックが多くありましたが、日本国内のクライアントからの反応はあまりありませんでした。国内のクライアントの99.9%は日本人男性なので、むしろ予想通りです。
ウーマノミクスが初めて注目されたのは、第2次安倍内閣が発足して少し経った2013年のことです。政府はいわゆる「アベノミクス」を成功させるために「ウーマノミクス」が必要だと宣言したのです。安倍元首相は英語のスピーチでも「ウーマノミクス」という単語を使っていました。
それを初めて聞いたときは正直、冗談かと思いました。それまで日本政府が国の成長戦略の一環として多様性を前面に押し出したことがなかったからです。安倍政権は女性の活躍を、女性がかわいそうだからといった人権問題や男女平等の問題としてではなく、成長戦略の中核に位置付けたのです。
「それで何か変わったのか」という質問をよく受けます。一番変わったのは、政府と社会の意識が変わった点だと思います。多様性が成長の必須条件だと信じていなければ、状況は変えられません。特に大多数の人々の行動や考え方を変えることはできないでしょう。多様性がイノベーションに必要なことだと説得できなければ、それを実現するのは非常に難しいのです。だからこそ政府が意識を変え、ジェンダーの多様性に真剣に取り組んだことがウーマノミクスのレポートの最大の成果だと考えています。
2013年からパンデミックまでの具体的な進展という点では、日本の女性の就業率は1999年の約56%から2019年には71%近くまで急上昇しています(ゴールドマン・サックスのレポートによると、2019年の国内の女性の就業率は71%)。これはアメリカの66%やヨーロッパ平均である61%を上回っています。
日本の女性就業率が欧米を追い越したわけ
James:何がこの変化を一番後押ししたのでしょう?何かしらの政策が効果的だったのでしょうか。それとも認識が変わったことでしょうか。
キャシー松井:いくつかの要因が合わさった結果だと思います。もちろん、政府がデフレから脱却し、経済を成長させるために総力を挙げたことも要因のひとつです。日本は景気拡大局面に入る前から労働力不足に直面していて、どこもかしこも人手不足が深刻でした。この場合、企業や雇用主はどうするか?手近にある労働力を利用するのです。このことから労働力や人材の面で女性が活躍しやすくなったと思います。
他にもいくつか要因があります。例えば、政府は保育園を増やすよう働きかけました。まだ待機児童が多い地域もありますから、問題がすべて解消されたわけではありませんが、政府はこの点に力を入れました。
そして3つ目は、見過ごされがちですが、政府が2015年に女性活躍推進法を施行し、日本の企業や公的機関に初めて女性の活躍に関する情報の「見える化」を義務付けたことです。例えば、社内の男女比や、管理職に占める女性の割合といった情報を開示することを求めたのです。これまで開示されてこなかったことが、ついに明るみになりました。
また企業はジェンダーの多様性の目標を設定することが奨励されました。2030年までに女性管理職を20%にするとかです。野心的すぎる目標でも構いません。重要なのは、こうした情報を開示し目標を立てることで、目標達成の進捗に対し会社の経営陣が責任を負うようになったことです。
米国にはこの種の法律はないんですよね。ですが、日本では施行されました。これは非常に重要なことだと考えています。
James:なるほど。特に日本では、これは大きなことかもしれませんね。情報を表に出し、数字が悪ければ印象が悪いですから。情報公開を義務付けるだけでも、大きな違いが生まれるのかもしれません。
もうひとつ影響があったのではないかと思うことがあります。安倍政権はスタートアップの推進にも力を入れ、その取り組みを大々的に宣伝しました。それを聞いて経済界のトップの人たちも「スタートアップに関わらないと」と思い、それが広く波及したように思います。その結果、明らかに資本の流入が増えましたし、起業家になる、あるいは大企業を辞めて起業家になる人たちも増えました。起業家になることを家族が受け入れやすくなったことも大きいでしょう。このようにトップの意識が変わったことも非常に重要なのではないかと思います。
ウーマノミクスでも同じようなことはあったのでしょうか。つまり、政府が言ったことで企業の優先順位の意識が変わるようなことがあったのかということです。
キャシー松井:もちろん、ありました。人は誰もが賢く合理的で、多様性が必要な理由を理解していると思いたいものです。ですが、政府が政策の優先事項に挙げ、トップダウンで取り組まなければ、多様性に懐疑的な人を説得することは難しかったでしょう。
懐疑的な人たちに「政府はいまこう言っている」「政府がスタートアップは成長に不可欠だと言っている」と説得できることは大きいです。これまでの考えを改めたり、既存の前提を見直したりする必要がありますから。
多様性についてもスタートアップについても、政府だけでできることは限られているので、政府を過度に賞賛すべきではないでしょう。とはいえ、方向性を示し、人々の意識を向けさせることは、特に日本では非常に重要なことだと思います。
James:そうですね。安倍元首相は在任中、素晴らしい取り組みをされていたと思います。ご冥福をお祈りいたします。
若者の意識の変化「仕事のための人生ではなく、人生のための仕事」
Ken:企業におけるジェンダーの多様性に対する人々の認識について聞きたいと思います。若い人たちは、男性であっても物事やライフスタイル、ワークライフバランスに対して昔とは異なる考えを持っているようです。この10年間で、多様性に対する人々の受け止め方はどのように変化しましたか?
キャシー松井:今私は若い人たちの多い業界で仕事をしていて、毎日出会う若い人たちの大半は、彼らの父親や祖父の世代とは異なる考え方や価値観を持っていると感じています。
例を挙げましょう。私がゴールドマン・サックスにいた時の話で、毎年4月の新入社員のオリエンテーションの場でレクチャーをしていました。たいてい日本経済や日銀の政策といった退屈な話をするんです。そしてスピーチの後に質疑応答の時間を設けます。会場には黒のビジネススーツ、白いシャツを着た新入社員が並んでいます。以前は男性が多かったのですが、今は男性と女性が半々くらいです。これはよい傾向です。
とはいえ、以前までは質疑応答で出る5つの質問のうち4つは、たいてい最前列に座る熱心な若い男性がしていました。質問はどれもマクロ経済や市場の状況など、スピーチの内容に関するものです。そして終了時間が迫り「次で最後の質問にしましょう」と言うと、会場の後方に座っている若い女性が、緊張しながらそっと手を挙げて「キャシー松井さんには2人のお子さんがいるそうですね。どのようにワークライフバランスをとっているのでしょうか?」といった質問をします。そういう類の質問です。
でも、この数年は若い女性からではなく、最前列の若い男性からそのような質問を受けるようになったのです。初めてそうした質問を受けたとき、私は部屋にいる他の人たちの顔を思わず見渡しました。この質問が来たかと。彼らにとってはゴールドマン・サックス証券に入社して最初の週ですよ。それがどういうことかわかって質問しているのかなと思いました。
もちろん、ゴールドマン・サックスは社員のワークライフバランスを尊重しています。とはいえ、ここで明らかな変化を感じたのです。若い世代、それも日本の若い男性たちにとって優先したいことが本当に違うんだなということです。彼らは家族や友人と過ごす時間を増やしたいと思っています。
仕事のための人生ではなく、人生のための仕事という考えなのです。それが怠けた考えだと言いたいのではありません。もちろん働くけれど、もっとバランスの取れた人生を送りたいという考えなのです。
この変化には本当に驚きました。ロンドンやニューヨークの同僚に、この変化はアジア、あるいは日本だけのことなのかと尋ねてみると、「いやいや、キャシー、私たちのところでも同じだよ」と言っていました。
これは本当に心強いことだと思います。そしてこれが、私が多様性を強く推している理由でもあります。なぜなら、これまで多様性の問題は、男性が支配的な分野で少数派のかわいそうな女性たちが現状を変えようと奮闘していることのように見られていたからです。しかし、今では新しいコミュニティの多数派が変化を求めて戦い、同じ方向に進もうとしています。これはとても強力な流れです。だから、私はこれからの変化がすごく楽しみなんです。
ESGに特化した日本で初のファンド
James:この部分について詳しく聞きたいと思います。キャシー松井さんはゴールドマン・サックスから飛び出して、日陰側であるベンチャーキャピタリストになったわけですよね。
キャシー松井:全然日陰じゃないですよ。こちらが日向です。
James:ゴールドマン・サックスと比べると華やかさは劣るかもしれませんが(笑)ファンドを立ち上げた時のLPの反応はどうでしたか?ESGに特化したファンドは日本では初めての試みです。もちろん重要な取り組みなので肯定的な意見は多かったかと思いますが、反発や懐疑的な意見もあったのではないでしょうか。
キャシー松井:そうですね。先ほど話したように、理論的には良いコンセプトだけれど、実践するとなると難しいのではないかという意見はありました。スタートアップは日々生き残るだけで精一杯でESGを気にする時間やリソース、余裕がないのではないかと。とはいえ、私たちは始めるタイミングがたまたまよくて、LPから投資を受けることができました。それらのLPはポートフォリオにESGを組み込むと宣言していたのです。
私たちが資金調達していたのは約2年ほど前ですが、当時ESGに焦点を当てたVCファンドもプライベート・エクイティ・ファンドもほとんどありませんでした。ですから、私たちが参入したときの反響は驚くほどよかったのです。LPの多くはすべての資産クラスにESGを含めようとしていました。ベンチャーキャピタルにそのようなファンドは他になく、MPower Partnersは面白そうだ、ということでLPになってくれたのです。
もちろん、少なくともベンチャーキャピタルの分野では、私たちには実績がありません。私たちは経営者になりたてですし、初めて設立したファンドですから、多くの壁にぶつかることは分かっていました。しかし、皆さんご存知のように、ESGは世界的に爆発的に広まっています。それは私たちの投資の仮説にとっては、ある種の追い風になったのです。
すべてのスタートアップがESGに取り組むべき理由
James:ESGは、特に上場企業では広く普及しています。ですが、スタートアップ業界ではまだこれからです。多くの起業家は、そもそもなぜESGを気にする必要があるのかと考えているのではないでしょうか。この部分について、意見をお聞かせください。
キャシー松井:もちろんです。はじめにお伝えしたいのは、大企業であれ中小企業であれ、若い会社であれ老舗であれ、ESGを取り入れることには利点やメリットが多いということです。
例えば、20年前、25年前まで、日本の上場企業が社外取締役を置くことは、あまり一般的ではありませんでした。あるCEOから、「会社のことをよく知らない社外取締役はむしろ会社にとってマイナスだ。そんな人たちがどんな価値を会社にもたらせるというのか?」と、言われたこともあります。当時はそのような考え方が主流だったのです。しかし、今では、適切で健全なガバナンスを実施し、従業員がいきいきと働ける環境を整え、環境に与える影響に気を配り、特にテック企業に関わるところではデータを安全に管理することが重要と捉えられるようになっています。
こうしたことはどれも常識的なことです。ですが、こうしたことについてただ考えるだけでなく、行動に移し、社内外のステークホルダーと対話することが必要不可欠なのです。
ESGを導入することの具体的なメリットのひとつは、人材獲得の促進と人材の流出を防げることです。スタートアップにとっては、熱心な社員のいる健全な職場環境を整えることが重要です。生き残れるかどうかだけでなく、成功できるかどうかに影響しますから。
また、ESGは資金調達の面でも重要です。例えば、NASDAQは取締役会の多様性に関する新しい上場要件を設定しました。2023年から、取締役に少なくとも1人の多様なメンバー、この場合は女性が必要です。いないのなら、その理由を説明しなければなりません。2025年には、これが2人に変更される予定です。
ゴールドマン・サックスも2020年に現CEOのデービッド・ソロモンが、取締役会に女性取締役が1人もいない会社のIPOは引き受けないと、発表しました。
James:これは大ニュースでした。
キャシー松井:正直なところ、私を含め社内の人間には衝撃的な決定でした。「市場シェアを競合他社に譲ろうというの!?」と思いましたね。ですが、そうではないのです。
ソロモンCEOは、取締役会が多様ではない企業は、取締役会が多様な企業よりも、IPOの1年後の業績が悪かったというこれまでの証拠に基づいた判断だと、非常に明確に説明したのです。「こうした方がいいと思うから」、といったような個人の意見や思想に基づくものではないということです。経験則や多くの研究結果により裏付けられた合理性があります。世界中でも、そしてここ日本でも、ESGは企業の健全性と長期的な持続可能性によい影響があることが示されているのです。
ですから、資金調達にかかるコストを最小限に抑えたいのであれば、ESGについて真剣に取り組むべきでしょう。これは特に海外の投資家で顕著ですが、日本の機関投資家もこのことについて考え始めています。
またESGはリスク管理にも有利です。同じような人たちが会社のリスク管理を担っていると、予想外のリスクを予期しづらくなります。しかし、ほとんどの問題は予想外のところからやってくるものです。
結局のところ、スタートアップにいかに強く健全な文化を根付かせ、会社を存続させるかという点に尽きると思います。リスクを軽減し、資金調達のコストを下げ、可能な限り優秀な人材を集めることが、それに直結するでしょう。こうしたことは、スタートアップが成功するための基本的な要素だと考えています。
シードは時期尚早? スタートアップはどの段階でESGに取り組むべきか
James:どの段階からESGに取り組み始めるのが現実的だと考えていますか?シードステージのシリーズでは、おそらく早すぎるのではないでしょうか。崖から飛び降りながら、飛行機を組み立てようとしている最中ですから。シリーズCやIPOの前の段階で、こうしたことを義務付ける機関投資家と話始める会社が多いと思います。ステージごとに、何から取りかかれるべきでしょうか?
キャシー松井:最近、私たちのナレッジパートナーであるボストンコンサルティンググループ(BCG)と一緒に、日本のスタートアップ50社を対象としたESGに関する意識と具体的に実行している施策について研究した調査結果を発表しています。調査では、立ち上がったばかりのスタートアップから、成熟したスタートアップまで幅広く調べています。
確かに、レイターステージの企業ほどESGに取り組むリソースや余力があります。ですが、私たちの経験から言うと、ESGの取り組みは一夜にしてできるものではありません。組織のDNAや文化に組み込まなければならないのです。それには当然、時間がかかります。だからこそ、どのステージにある企業にも、なるべく早くにESGに取り組むことを推奨しています。子育てと同じです。倫理観や、人として何をすべきで、何をすべきでないかといったことは、大きくなってからよりも成長段階の若いうちの方が吸収しやすいでしょう。
だから、質問の答えは、「たとえシードでもシリーズAでも早ければ早いほどよい」です。いずれ成長したら考えなければならないことですから。
すべてのステージのスタートアップに共通する「ESGの4大テーマ」
James:なるほど。では、例えば、アーリーステージのスタートアップはまず何から取り組むべきでしょうか。というのも、ESGにはさまざまな要素があります。取り掛かり始めにおいては、どれが最も重要でしょう?
キャシー松井:さきほど話した調査の前に、私たちはESGのプレイブックをウェブサイトに掲載しています。そこに必須項目を4つ明示しています。 1つは、DEI、つまり多様性・公平性・インクルージョンへの配慮です。これについては多くの人がすでに理解しているかと思います。
キャシー松井:DEIについては、従業員や経営陣だけでなく、ベンダーやサプライヤーといったパートナーの選定、取締役のDEIも重要です。これには性別の多様性だけでなく、経験の多様性も含まれます。先ほど説明したように、取締役にはあらゆる潜在的なリスクを検知してもらいたいからです。
2つ目は、二酸化炭素排出量をある程度把握することです。「でも、私たちは毎日二酸化炭素を排出しているわけではない」と多くのテック企業は言います。しかし、世界中の大手ハイテク企業はどこも、自社の排出量を調べ、いつまでにどのくらい削減するかの目標を立て、それを達成するための具体策を公表しています。
またこれは自社だけにとどまることではありません。例えば、製造業なら、投資家からScope3 (自社の活動に関連する他社の排出量)について質問があるのは間違いないでしょう。つまり、自社の事業で排出している分だけではなく、サプライヤーが排出するCO2や温室効果ガスも測定しなければなりません。
3つ目は、先ほどのDEIに関連することですが、ガバナンス、特に取締役会と経営陣のガバナンスを整えることです。多くのスタートアップのキャップテーブル(どんな株主が何%の株式を所有しているかなどを一覧にした資本政策表)はそれほど多様ではありません。取締役は基本的に投資家が就任しているでしょう。しかし、会社が成長し、成熟したときに、独立した声を取り入れているかが重要になります。
これは一般的に、より成長した段階で株主より多様にしたり、取締役が責任を持って意思決定できていたりするかに関連します。経営陣に対するチェック機能、つまり、すべての選択肢が吟味され、意思決定のプロセスが公平かどうかを問う仕組みがあるかということです。
最後の1つはデータの取り扱いに関してです。これは非常によくある課題です。 テック企業は大量のデータを管理していますが、セキュリティやプライバシー対策はどうしているのかということです。もしB2Cの企業なら、データのセキュリティとプライバシーは注目されている部分ですし、これからますますその傾向は高まるでしょう。
これらが必須条件です。一歩下がって、例えばアナリストが企業を外から評価するときのことを考えてみましょう。このようなESGを考慮しない場合、評価基準は基本的に一連の財務指標となります。ですが、売上高や利益率、純利益などの指標では、企業の一面しか分かりません。非財務指標、つまり先ほど説明したDEIやデータプライバシーへの取り組み、取締役の構成などを考慮しなければ、全体像を把握することはできないのです。
これは、医者が診察室に来た患者の外見だけを見て病気を診断するようなものです。十分な情報がない中で診断を下そうとしているということです。体の中で病気が進行しているかもしれないのに、患者の外側を5分間見ただけではそれがわかりません。あまりうまい例えではないかもしれませんが、非財務指標が重要な理由はそういうことです。特にスタートアップでは顕著です。外部には表れないことがたくさんありますから。
投資前のスタートアップには「ESG覚書」に署名してもらう
James:投資をする時、ESGの採点項目などで企業を評価するのでしょうか?
キャシー松井:私たちの場合、通常のデューデリジェンスと並行して、ESGのデューデリジェンスも行っています。スタートアップによって事業分野もステージも異なるため、採点項目のようなものはありません。世界的に見ても、誰もが納得する普遍的なフレームワークというのはまだありません。そこで私たちは、ESGのそれぞれの項目に対応する一連の質問を用意しています。
そうした質問を通して、スタートアップのESGに対する意識の高さや成熟度を理解しようとしています。もちろん、ESGが完璧な企業はありません。ただ、どこに向かいたいかという点において、私たちと考えが一致しているかどうかはわかります。私たちにとって本当に重要なのは、そのスタートアップの現在地とこれからどこに向かいたいのか、また中核ビジネスの一部としてESGをどれだけ優先するつもりなのか、という全体像を把握することなのです。ここはご想像の通り、数字より、感性が重要なところだと言えるでしょう。
とはいえ、かなり厳しい質問を投げかけます。例えば、パワハラやセクハラなど、過去にハラスメントを受けたことがあるかといったことです。中には、正直に「あります」と答えた会社もあります。そこで次に聞くのが、そうしたことへの対処法です。社内外に内部告発できる仕組みはありますか、それは機能しましたか、その後どうなりましたか、といったことを聞きます。もちろん個人名を明かす必要はありませんが、そのプロセスを知りたいのです。ここを知ることで、今後起こるであろう不測の事態について、そのスタートアップがどのように考え、どのように対処し、管理するかが分かります。
James:通常のデューデリジェンスの質問と似ていますね。特にレイターステージの企業の。
キャシー松井:もちろん、これらはどれも常識的なことです。ほかにも質問はあります。ただ、事前にすべての質問内容を伝えることなく、直接聞いたときの反応を知りたいのです。すべて公開してしまうと、準備されてしまいますからね(笑)
全体の流れとしては、投資契約書に署名する前に、スタートアップには私たちが「ESGの覚書」と呼ぶ書面に署名してもらいます。これは基本的に「ESGロードマップ」をつくることに同意するという内容のものです。
ロードマップでは、スタートアップ自身で自分たちのESGの重要事項を決めてもらいます。その次に、その重要事項に基づいて設定したKPIや目標をロードマップに落とし込みます。
正直なところ、こうした設定された目標の中には達成に何年もかかるものもあります。これは短期間のスプリントではなく、マラソンに近いのです。
ただし、ロードマップは1回決めたら未来永劫変わらないものではありません。企業のステージが変わったり、あるいはピボットしたら、別の重要項目を優先する必要が出てくることもあるでしょう。重要項目は会社の変化とともに変わるものなのです。
投資先が二酸化炭素排出量を測定するためのツールを探しているのなら、私たちは手を貸します。よくあるのは、女性の取締役を見つけたい、Cクラスの女性の役員を見つけたい、という要望です。事業開発のサポートや全体的な人材採用などは、当然のサポートとしてやっていますが、こうしたさらに一段階上のサポートも提供しています。
90%のスタートアップがESGの効果を実感
キャシー松井:ここまでの道のりは本当によい意味で驚くことが多かったです。どの企業もESGに独自の方法で取り組んでいますが、良いニュースは、全体的にESGに対する意識が非常に高いということです。
私たちが調査した日本のスタートアップの90%以上が、ESGに取り組むことは有益だと考えていました。これは私たちが想像していたよりもはるかに高い結果です。
つまり、彼らは取り組むべき理由は理解していますが、問題は方法なのです。ESGにどのように取り組むか、の部分です。だからこそ、私たちはESGプレイブックを作成しました。情報を広め、何から始めればいいのか、その足がかりにしてほしいと考えています。具体的な事例をもとに、最初にとるべきステップが理解できるでしょう。
James:IPOが近い会社ではこうした話題はよく出てきますね。正直なところ、私はこの分野でそれほど経験があるわけではありません。だから、プレイブックやベストプラクティスがあるととても便利です。MPower Partnersの投資先の中で、ESGの取り組みを改善できた具体的な事例はありますか?
キャシー松井:そうですね。私たちの投資先に、Wovn Technologies(WOVN)という会社があります。この会社はウェブサイトやアプリケーションの多言語化を可能にするソフトウェアを提供しています。私たちがとても魅力を感じた会社です。
世界のインターネットの情報の25%は英語で書かれています。日本語はわずか3%です。日本人として世界の情報にアクセスしたいと思っても、他の言語を話さない限り、手に入る情報は限られます。逆に日本語の情報や、日本語を話さない人が日本語の情報にアクセスすることも難しいでしょう。つまり、彼らの事業自体もインクルージョンに関係しています。
WOVNのESGへの取り組み方は興味深いものでした。彼らはまず、各部門から「ESGタスクフォース」に参加したい人を社内で募ったのです。手を上げた社員のESGにまつわる経験や理解度はまちまちでした。そこで最初の課題は、ESGに関する本を読むことでした。本を読んでから、それぞれの部署WOVNのESGにとっての重要項目を考えたのです。
もちろん、人によって重視する点や優先順位は少々異なります。しかし、全員で何度か会議を重ね、最終的にWOVNの重要項目を決定したのです。社内外のステークホルダーとも内容を吟味しています。そして、重要事項を自社のウェブサイトで公表しています。これはどこも実施すべきことです。
WOVNのアプローチが興味深いのは、ボトムアップで重要項目を洗い出していたからです。CEOが決め、トップダウンで社内に浸透させるのではなく、ボトムアップの形式だったからこそ、社内全体でより広く賛同が得られたのだと私は考えています。
グループとして最初の大きな議論をした直後にこのESGタスクフォースとビデオ会議で話をしたのですが、そのときの会話がとても印象に残っています。
開発部門の社員が、「今まで営業部門の同僚とWOVNのパーパスやミッションについて真剣に話したことはありませんでした」と話していたのです。話題に上ることがなかったのですが、このとき初めて部門を越えて、会社の存在意義について話し合うことができたと言います。なぜ、この組織のために働くのか、その目的について話ができたと。
こうしたことが社員の心に響いたようです。WOVNには確か、25カ国の国籍の社員が集まっていて、非常に多様です。その中で重要項目が、社内の共通言語になったのです。これはとても興味深いことでした。
James:Wovn Technologiesの製品を考えると、多様な社員の間の共通言語ができたというのはとても象徴的ですね。
キャシー松井:はい。その通りです。
James:特に投資に感心のある分野があれば教えてください。
キャシー松井:私たちのファンドは分野を絞って投資しているわけではありません。しかし、大枠のテーマは「テックで実現する持続可能な生活」です。これにはヘルスケア、ウェルネス、DXを含む未来の働き方、クリーンテックを含むサステナビリティなど、あらゆる分野が含まれます。もちろん私たちは金融業界の出身なので、フィンテックも該当します。
投資対象となる分野は幅広いです。また日本のスタートアップだけでなく、海外のスタートアップ、特に日本に進出したいスタートアップにも会いたいと思っています。
とはいえ、ESGをビジネスに取り入れることにコミットしていただく必要があります。これはMPower Partnersがサステナビリティに取り組むESG企業にしか投資しないということではありません。そうした分野の企業でなくともかまいませんが、ESGは企業の成長と成長の継続の要であり、ESGをビジネス戦略に盛り込んでもらう必要があります。そのような企業であれば、私たちは喜んでパートナーになりたいと考えています。
James:ありがとうございます。スタートアップのファウンダーはどうやってMPowersに連絡すればいいでしょうか。
キャシー松井:私たちのウェブサイト、または [email protected]までご連絡ください。
James:ありがとうございます。今回はお越しいただきありがとうございました。
キャシー松井:こちらこそありがとうございます。