「撤退」という言葉のない日本社会におけるスタートアップ

Coral Insightsをお読みの方であれば『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』という本を読まれた方も多いのではないかと思います。1984年にダイヤモンド社から出版された本で、旧日本軍における各地域での作戦と、その実行における敗因を探った戦史研究の本ですが、実際には日本社会固有の負の側面をあぶり出した組織論としてよく知られているかと思います。
私は20年近く前に中公新書の新書版で読みましたが、その後も続編として2012年には『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』が出たり、やはり2012年にダイジェスト版の『「超」入門 失敗の本質』が出たりしていて、広く読みつがれている本です。新たに出版されるビジネス書で1万部が売れれば上出来という出版の世界で、失敗の本質は毎年1万部単位の増刷がかかると言い、2020年の時点で75万部を超えるロングセラーであると報じられています
著者グループが研究対象としたのはノモンハン事件、ミッドウェー海戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦など第二次世界大戦の旧日本軍の失敗事例です。そこに共通して浮かび上がったのは、

  1. データを軽視した戦略策定
  2. 特定環境への過度の適応
  3. 学習棄却による自己革新ができなかったこと
  4. 過去の成功モデルへの固執
  5. 官僚的な縦割り組織、属人的な評価制度
  6. 戦力の逐次投入

などです。それなりの規模の日本の組織で仕事をしたことがる人であれば、どこかに身につまされる指摘があるのではないでしょうか? 「ああ、うちの会社はまさにそれだ」、あるいは、「あのプロジェクトの敗因は、まさにそこだ」といった具合です。

撤退できずに兵力を逐次投入、大量の戦死者を出した旧日本軍

この本で特に私の印象に残ったのは現場の生のデータを軽視した本部による指令と、戦力の逐次投入です。一貫性がなく、行きあたりばったりの印象が拭えない政府のコロナ対策などを見ていると、これは日本社会の宿痾とも言えるのではないかと思えます。私が過去に見てきた日本企業内の新規事業立ち上げでも同様の構図があるように思えました。サンクコストのバイアスもあるからか、撤退の意思決定が遅くなりがちという傾向です。
出版から40年近くが経過してもなお読みつがれ、共感を得ているということは、そうそう簡単に社会や組織のあり方は変わらないということではないでしょうか。非常に多くの人が読んでいるわけですから、特にリーダー層では上に挙げたようなことを理屈として知らない人のほうが少ないくらいではないかと思います。組織の合理的意思決定を妨げる原因は、どれも自明と言えば自明ですし、誰もが薄っすらと認識もしているのだと思います。だから本当の問題は、問題の原因が分かっていても誰もズバッと本当のことを言ったり提言できないという日本社会の人間関係のあり方なのではないか、とも思えます。
戦力の逐次投入を続けて大量の戦死者や餓死者を出し続けたインパール作戦に関して、現場でかわされたやり取りは、まさにそうした現場の人間同士の忖度があったことを示しています。以下、Wikipediaから少し引用します。


2人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止をためらっている間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した(Wikipediaのインパール作戦解説より引用。太字強調は引用者による)。


牟田口軍司令官も河辺中将も、もはや作戦を中止すべきと考えていたのに、それが言い出せずにいる間に多くの犠牲が出てしまった、ということです。しかも食糧が尽きたことによる餓死も多く、「作戦中止」を言い出せなかったことは非常に残念な話です。旧日本軍では「撤退」という言葉を使うことに対する禁忌が強すぎたために「転進」とか、「戦略的転進」という言葉を使ったのも良く知られた話です。

スタートアップこそ撤退ラインを明確に

スタートアップが事業からの撤退を決めるときにも似た構図があるのではないでしょうか。日本社会における組織である以上、上記のように「言い出せない重たさ」が生まれることはあるように思うのです。デスクレスSaaSのカミナシがピボットを決めたときの空気感について、創業者の諸岡さんは自分からはピボットという言葉を言い出せなかったと回想しています。インパール作戦と違ったのは共同創業者が冗談ぽく言った一言がきっかけで、真剣な議論をスタートでき、その後にピボット。大型資金調達にも繋がったことです。
先日公開した記事、「【調査】ピッチ大会で優勝したスタートアップは成功してるか? 過去10年分を調べてみた」では「対外的に明確にサービスの終了を宣言しているスタートアップ企業の成功率が高いように見える」という観察をご紹介しました。成功しているスタートアップほど、過去に何らかのチャレンジで作戦中止という一種の「負け」をパブリックに認めたことがあるという観察です。数字のデータで裏付けられたものではありませんが、いくつか事例は思い浮かびます。
事業からの撤退や、事業ドメイン自体からの撤退は、どれも大きな痛みを伴う勇気のいる決断だと思います。しかし、大企業ほどさまざまな忖度の力学が働かないのがスタートアップではないでしょうか。大企業の人事評価は減点方式のため、誰にも失敗を認めるインセンティブがありません。このため他部署に後ろ指をさされながらも、明らかにうまく行っていない新規事業に逐次投入されるリソースを止める意思決定はなかなか起こりません。一方、スタートアップでは仮説の誤りを認めて違った方向に走り出さなければ倒れてしまいます。
カミナシの諸岡さんは、ピボットを考慮する段階では、すでに事業に対する解像度が大幅に上がっているため成功確率も高いはず、ということも指摘しています。戦力の逐次投入によって現場が疲弊しきる前に撤退の意思決定とアナウンスをする―、その合理性と身軽さはスタートアップが大企業より有利に戦えるポイントの1つなのかもしれません。
スタートアップにとって究極の撤退は会社清算です。日本のスタートアップエコシステムでは会社を畳むという撤退が少ないことが、マクロで見れば課題なのではないかと指摘する人は少なくありません。この話は別の機会に書いてみたいと思います。

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Partner, Chief Editor @ Coral Capital

Ken Nishimura

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