スタートアップで活躍する80歳の第一線エンジニアーーそのチャレンジだらけの半生とは

スマートロックを活用した法人向けの「Akerun入退室管理システム」をはじめとしたAkerunブランドのクラウド型IoTサービスを提供するフォトシンス(Photosynth)というスタートアップに、なんと80歳の現役エンジニアがいるといいます。

「戦争のことはいまだに覚えています」と語る深谷ヒロカズさん。生まれは1941年。太平洋戦争が始まった年でした。


戦争の怖さを身をもって体験した世代。焼夷弾の下をくぐって逃げたことが、幼いころの記憶に残っています。

そんな人物がいま日本のスタートアップにいます。しかも創業初期のフォトシンスにエンジニアとして参画し、初代のAkerun Smart Lock Robot(現在は生産完了)、提供中の法人向けAkerun Proの設計技術全般に関わってきました。以来約6年、今ではフォトシンスは正社員が150人を超えて成長を続けていますが、社内で技術講座を開くなど、まさに日本のモノづくりの知恵を若い会社に注ぎ込んでいます。


“人生100年時代”と言われるいま、我々はいったい何歳まで働くことになるのだろうと考えます。働きたくても、そもそもいつまで働けるのだろう。ましてや新しい技術を学ぶのは何歳まで可能なのか……。

そう考えると、スタートアップに勤務する80歳エンジニアという存在には、いろいろ勇気づけられるものがあります。

そんな深谷さんにこれまでの歩みと仕事論をお聞きしました。

「たいしたことはしてませんが、毎日その日を、自分なりに一生懸命仕事に取り組み、楽しみながら生きてきました」と謙遜しながらも、話してくれました。

創業初期からメンバーとしてフォトシンスで活躍する深谷ヒロカズさん、生まれは1941年

小学生のころは鉱石ラジオがおもちゃ代わりだった

ーー1941年生まれですと、そもそもテクノロジーに関して勉強すること自体が難しい時代ですよね。どんなふうに過ごしていましたか。

深谷さん:そうですね。子供の頃からエレクトロニクスが好きで、小学校の頃は鉱石ラジオをつくって楽しんでいました。それが今にもずっと続いているようなものです。

高校までは普通の学校ですけれど、大学は理工学部の電気工学に進みました。そこで習ったことが「真空管」という時代ですから、当然ソフトウェアもまだ普及していなかったです。

たしか、情報処理とかいう学科はありましたが、「わけのわからないことをやっているな」くらいの印象でした。

一番簡単な鉱石ラジオから始めて、真空管のラジオをつくったり、それから、トランジスタのラジオも自分で本を読みながらつくったりしました。いろいろな電子回路を勉強したんですけれど、一番勉強になったのはAMラジオでした。

なぜいいかといいますと、AMラジオというハードウェアには、高周波から、周波数の変換、復調、低周波のオーディオ、それから電源まで基本的なエレクトロニクスの技術が一通り詰まっているんです。

ーーラジオをつくるのはいまの時代でいうと、プログラミングをやってゲームをつくってみるとか、そういったイメージですかね。

深谷さん:ソフトウェアでいえばそういう形になります。当時はソフトというものが普及していなかったので、私はハードでやっていたということですね。

大学を卒業して最初に入ったのは、大手の通信機メーカーでした。そこのテレビ関連の技術部門に配属されたのが社会人のスタートです。

入社してから3年目くらいに、突然海外出張を命じられ、興奮したのを覚えています。シカゴのオフィスに1年ほど行くことになりました。

トラブルシューティングが主な仕事だったんですけど、そこでえらいカルチャーショックを受けました。当時は1ドル360円の時代ですから、それはもうショックが大きかったです。

技術的なことはそんなに差がないように思ったのですけれど、当時の日本に比べて、アメリカは社会生活そのものが10年から20年は進んでいました。

ピザにステーキ……、カルチャーショックが大きいほど頑張れる

ーー実際どんなところに違いがあったんですか。

深谷さん:先ず、車社会を目の当たりにしたことです。また、生活様式も全く違っていました。でも、思い出すのは、主に食べ物の話ばかりになります(笑)

シカゴのツインタワーというところにレストランがあって、そこでピザをご馳走になったんです。当時の日本ではまだピザというものがまったく知られていなかったものですから、「こんな旨いものがあるのか」と感激しました。

ビーフステーキも初めて食べましたが、一番好きだったのはヒレ肉をベーコンで巻いたフィレミニョンでした。いまは日本でも当たり前ですけれど、5センチくらい厚みのある牛肉がドンと出てきて、アメリカ人というのはすごいものを食っているな、と感心しましたね。

非常にいい経験でした。生意気なことを言いますが、いまの若い人はどんどん海外に行って、日本では体験できないことから積極的に知識や経験吸収するといいと思います。

やっぱりカルチャーショックを受けるというのは必要ですよ。カルチャーショックが大きければ大きいほど、こうなるようにとかこうならないように「頑張らなくちゃ」という気持ちになります。

社内でも同じ仕事は「3年でステップアップ」

ーーその会社ではエンジニアとして仕事のキャリアをスタートされて、転職などはされたんですか。

深谷さん:転職を考えなかったことがなかったかというと、考えたことはありました。でも最終的には転職しないで定年までやっていました。やっぱり一つの会社で技術を極めないと、エンジニアとして使い物にならないと思ったんです。

入社後5年ほど、テレビ関連の技術開発を担当し、その後集積回路に関心分野は移り変わっていきましたね。当時はアナログICがちょうど立ち上がり始めた時期で、「ICをやりたい」と無理を言い異動させてもらいました。社内では、常に新しい技術に積極にチャレンジしていました。また、海外企業とも積極的に共同開発に取り組み、視野を広げました。

こうしてアナログ系のIC回路設計を専門に17年くらいやりました。社内でもちょっと長くやりすぎだと言われるようになって、その後10年くらいはICの応用技術をやっていたんです。アプリケーションですね。この間に、中国の合弁会社設立や市場開拓に10年ほどかかわり、これも、社会の仕組みが全く異なる環境での活動でしたので、かなりハードなカルチャショックでしたが、これを乗り越えたことは自分の成長にもつながったと思います。

ーー最初にハードウェアのエンジニアをやって、最後はアプリケーションまで、社内でジョブチェンジしていったわけですね。

深谷さん:そうですね。組織変更が度々あったので、それに合わせ未経験分野への取り組みという意味でのジョブチェンジで、より先進的な技術領域へチャレンジしました。だいたい私は3年同じ技術レベルの仕事を続けていると、電子技術の進歩が速いので新鮮味がなくなるというか、マンネリ化するのを感じるんです。

2年目くらいになると、次の3年目以降は何をしようか、ということを考え始めます。そのために1年間準備をして、3年経ったものは部下に任せて、さらに上を目指して新たな技術にチャレンジということを繰り返してきました。

自分で3年やると、何が良くて、何が悪いのか、問題点はどこにあって、どう解決すればいいかということを、きちんと指導できるんです。それで自分はまた次の新しいものをやり、所属部署の技術力のステップアップを図るといった具合です。

ーー根っからスタートアップ気質なんでしょうね。新しいことが好きで変化のない状態にとどまっていられない。

深谷さん:そう言うと立派に聞こえるんですけれど、実際たいしたことはないんです。「そろそろ飽きたから何か新しいことをやろうか」という感じです。何か、現状に甘んじることに危機感を感じるんです。

当時は会社が「真似をするな」という方針でした。社内で販売の神様と言われている方がいて、その方の「半歩先行」という名言が浸透していました。

他社と同じようなことをやるにしても、何か新しいことをプラスしないと事業部内の審査会が通らないという環境だったんです。それが、いつも新しいことに取り組むというモチベーションにもなったと思います。

定年後、なぜか香港でペーパーカンパニーをつくる

ーー定年されたのは2000年前後。年金をもらってのんびりされるのかなと思ったんですけど、全然そんなことはなさそうですね。

深谷さん:私はもともと技術が好きで、技術から離れたくなかったんです。

定年になってからしばらく、2年くらいは関連会社に勤めていました。中国にデザインセンターをつくるというプロジェクトに関わって、立ち上げのサポートをさせてもらいました。

中国で会社をつくるときは、だいたい香港にも関連会社を作ります。お金の流れを円滑にするためなのですが、香港と中国の一連の商売の流れをそこで勉強させてもらいました。事業運営から経理まで全部自分が主体でやる必要がありました。

それで現地法人設立や運営の知識も身について、ちょっと調子に乗って自分でお金を出して、香港にペーパーカンパニーをつくってみたんです。

会社をつくるのは簡単ですけれど、やっぱり仕事をとるのが大変なんですね。結局仕事をとってくるのが上手くできなくて、数年たってから解散しました。

ーー定年後に海外で会社をつくるだけでもすごい行動力だと思います。

深谷さん:いろいろな機会に恵まれたというのがあるんです。それから、良い人脈を通じて、信頼できる方とのお付き合いができたおかげだと思います。

専門技術も関連する仕事も一生懸命やって、自分なりに楽しんでいろいろなことを吸収したおかげで、知識と経験を広げるチャンスが拡大していきました。それで知識が広がっていくと、人とのつながりが広がり、今度は逆にそちらのほうから、思わぬ声がかかってくるんですね。

2001年には「こういう仕事があるんだけれども、やらない?」というお誘いをもらいました。それで本格的に取り組んだのが、マレーシアの市政府系の人材開発センターでした。
大学を卒業したばかりの若いエンジニアを対象に、スキルアップをして仕事に就かせるようなチャンスをつくってあげようという趣旨でつくられたトレーニングセンターでした。

この技術者のトレーニングセンターでアナログ回路技術の指導をやってくれないか、というお話でした。2年間で400人の育成が目標という話だったんですが、日本とマレーシアを往復しながら続け、終わってみたら10年くらい続いていました。これも、若い技術者とどう向き合うか、年の差ギャップを乗り越える試練だったと思います。

そして日本のスタートアップでエンジニアに

ーーフォトシンス参画の話に進みますと、最初のきっかけはなんだったんですか。

深谷さん:マレーシアのプロジェクトが終わったのが2011年でした。しばらく休んでいたんですけど、休んでいると、やっぱりムズムズしてくるんです。

何かやりたいな、何かやることはないかな、と思って、いろいろとホームページとかを見ていたんです。そのときに、たまたま見かけたのがとあるシニア専門の求人サイトでした。

実はそのサイト、作ったのはフォトシンスの創業者たちだったんですよね。それが出会いでした。

あれこれ振り返ってみますと、大手企業への入社で恵まれた技術習得や自己啓発の環境のもと、アメリカでの技術駐在や中国市場開拓経験、定年退職後の香港での起業、マレーシアでの人材育成等で培った技術知識や経験に関心を持っていただいたフォトシンスとの出会いと厚い信頼関係が、今日につながっていると思います。

創業初期、フォトシンスのオフィスを訪れる深谷さん(左)と共同創業者の熊谷さん(右)

(大手メーカーから、五反田のマンションの1室がオフィスというスタートアップにチャレンジの場所を移す深谷さん。その後の活躍については後編記事で

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Editorial Team / 編集部

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