昨年5月にシリーズDで約156億円の資金調達をしてユニコーン企業となったSmartHR。今回は同社COOの倉橋隆文さんをゲストに迎えました。倉橋さんはマッキンゼー&カンパニーに入社後、ハーバード・ビジネススクールでMBAを取得。その後は楽天で海外子会社社長などのポジションで事業成長を推進してきました。
SmartHRに入社したのは2017年7月で、従業員は30人程度。当時は倉橋さんのようなキャリアの持ち主が初期のスタートアップに移籍するのは珍しいことでした。そこで今回は、倉橋さんがSmartHRにジョインしたきっかけから、ユニコーンの仲間入りするまでの道のり、そしてこれからのビジョンを伺いました。
※本記事は情報提供を目的としたものであり、投資の推奨または勧誘を意図するものではありません。
なお、インタビューのノーカット版を英語によるポッドキャストでお届けしています。ポッドキャストは、Apple Podcastsか、Google Podcasts、またはSpotifyからお聞きいただけます。
- ゲスト:SmartHR最高執行責任者(COO) 倉橋隆文氏
- 聞き手:Coral Capital創業パートナーCEO James Riney、同パートナー兼編集長 西村賢
The Coral Capital Podcastでは海外の投資家・起業家へのインタビューを今後も予定しています。Apple Podcastsのリンクか、Google Podcasts、またはSpotifyのリンクから、ぜひフォローしてください。
James:Coral Capitalのポッドキャストにようこそ! お越しいただきありがとうございます。
倉橋:今日はお招きいただきありがとうございます。
James:倉橋さんはマッキンゼー&カンパニーに入社した後、ハーバード・ビジネススクールでMBAを取得され、そこから楽天に行って三木谷さんのもとでM&Aや投資をしていたんですよね。世の中のどんな仕事もできそうな感じですが、なぜSmartHRを選んだのでしょうか。当時のSmartHRはARR(年間経常収益)1億円ぐらいでしたよね。
倉橋:そうですね。私がSmartHRに入社したのは2017年で、当時の社員は20~30人でした。SmartHRを選んだのは、スタートアップの世界に身を置きたいと考えていたからです。楽天のキャリア終盤では新規事業を担当していたのですが、それがすごく楽しかったんですよね。
いざ転職活動を始めてみると、幸いなことにたくさんのオファーをいただき、その中から3社に絞りました。そして、各社とNDAを交わしつつビジネスデューデリジェンスを行ってみて、自分の人生を賭けたいと思ったのがSmartHRだったんです。その理由は、ビジネスとカルチャーの2つの点にありました。
まずはビジネス面についてお話しします。私が入社した当時のSmartHRはARRが1億円に満たない程度でしたが、すでに社会保険や労働保険の書類手続きを効率化するプロダクトを手がけていました。日本の企業はこれらの書類を提出することが法律で義務付けられていています。それに対してSmartHRは素晴らしい解決策を提供していて、TAM(Total Addressable Market:獲得可能な最大の市場規模)の大きさも魅力でした。
でもそれ以上にすばらしい副産物がありました。それは、人事労務の効率化から生まれる「人事データ」です。企業は社員が入社したり、退職したり、新しい家族ができたりすると、その都度人事データを更新しなければなりません。SmartHRではそれらの情報を従業員が更新し、常にクラウド上に最新の人事データベースが存在しています。そして、この人事データこそが、日本で大きな成功を収めるための足がかりになると感じたんです。
また、カルチャー面で惹かれた理由としては、SmartHRが「権限移譲」にとても力を入れていたことが挙げられます。日本のスタートアップでは珍しいかもしれませんが、SmartHRには自分の仕事を人に任せるカルチャーがあります。私自身、マイクロマネジメントをされるのも、マイクロマネジメントをするのも好きではないのですが、SmartHRの権限移譲文化はまさに私が望む働き方だったんです。
西村:起業するという選択肢も考えましたか?
倉橋:自分で会社を立ち上げることも考えましたが、自分は「0→1」のタイプではないという結論に至りました。新しいアイデアを出すのが苦手なんです。でも、1を10にしたり、10を100にすることは比較的得意でした。だからこそ、初期のスタートアップにジョインすることを選びました。
James:私がこれまで日本で見た中で、倉橋さんは間違いなく業界トップクラスの「オペレーター」のひとりだと思います。ストレッチした目標を立て、それを達成するための実行力は他の追随を許さないレベルです。
海外投資家も多数参加した、大型資金調達の舞台裏
西村:話は変わりますが、2019年7月には約61.5億円のシリーズC資金調達を実施しています。このラウンドにはLight Street CapitalやSequoia Heritageといった海外投資家も参画しています。当時の日本のスタートアップ業界では海外投資家からの資金調達は珍しかったように思いますが、どういった経緯で実現したのかジェームズと倉橋さんからお話しいただけますか?
James:正直に言うと、シリーズDラウンドにCoral Capitalはそれほど関与していません。なぜならばSmartHRの実績はすばらしく、数字を見たら誰でも投資したいくらいだったので、すでに海外から多くの投資家が集まっていました。ですので、私たちが投資した初期のSmartHRの話をさせてください。
私たちは、SmartHRがカテゴリーリーダーとして、日本では数少ないユニコーンになると確信していました。そこでSmartHRのみに投資するファンドとしてSPV(Special Purpose Vehicle:特別目的事業体)を2018年1月に設立し、15億円のシリーズBラウンドを独占的に投資することにしました。それは私たちの会社としても初期の投資案件で、もしもうまくいかなかったら、今もVCを続けられていたかどうかわかりません。
倉橋さんのおかげで「T2D3」(Triple, Triple, Double, Double, Doubleの略。ARRを年々3倍、3倍、2倍、2倍、2倍に成長させていくこと)のモメンタムを作れたので、倉橋さんがジョインしたのはSmartHRにとって大きな変曲点だったと思います。
その勢いでシリーズCに突入して大きな資金調達が必要になりましたが、当時の日本は10億円以上の資金を投資できるプレーヤーが限られていて、大型調達するには厳しい環境でしたよね。逆に海外投資家と話をすると「最低でも30億円からしか投資しない」と言われることがほとんどでした。
そんななか、シリーズCで61.5億円を調達したのは本当に重要なことだったんです。大型資金調達をするには海外投資家に検討してもらう方が早かったので、私たちは主要な投資家を何社かSmartHRに紹介しました。オファーをいただいたけどお断りした有名な投資家もいたので名前は挙げませんが、このポッドキャストを聴いている人なら誰でも知っているようなところもありました。
当時のSmartHRは、特に海外ではほとんど知られてませんでした。でも、シリーズCでの大型調達後は、世界有数のSaaS企業に投資している海外投資家たちが「SmartHRに投資したい」とドアを叩いてくるようになりました。
倉橋:ジェームズには、シリーズBラウンドをリードしてくれたこと、そして自分たちのためにSPVを設立してくれたことを感謝しています。なぜなら私たちのチームはまだ小さく、私を含む経営陣は資金調達よりもビジネスの成長に集中したいと考えていたからです。
また、SmartHRのカルチャーとしても、日本で前例のなかったスタートアップ向けのSPVのように、新しいことに挑戦するのが好きでした。シリーズBラウンドをリードしてくれたことで資金調達プロセスを実質的にほぼアウトソースできたので、私たちはビジネスに集中することができました。その結果、シリーズCに進むための勢いがつき、海外投資家からも後押ししてもらえるようになりました。ジェームズには本当に感謝しています。
日本におけるスタートアップ投資の「隠れた真実」
西村:海外投資家を迎えたシリーズCラウンドで苦労したことはありますか?
倉橋:それほど苦労したことはありませんでした。というのも、SaaSビジネスは数字がものを言う世界なので、海外投資家は日本のSaaSの市況を知らなくても、数字を見て評価してくれるからです。私たちのモメンタムは、シリーズCに参加してもらうのに十分なものでした。
ただ、シリーズCの直後に行ったことがあります。それは日本のスタートアップ企業では珍しいことですが、IRチームを社内に作ることです。シリーズCラウンドでは、私がカウンターパートとして世界中の投資家と話をしていました。シリーズDでも多くの投資家と話をしたかったのですが、私は事業運営にフォーカスすべきと考え、優秀なIR担当を2名採用することにしました。そのうち一人は現在、財務とIRの責任者で、英語がとても堪能です。彼が海外投資家とのミーティングをすべて行ってくれたおかげで、シリーズDでは幅広い海外投資家に参加いただくことができました。
西村:IRチームを作ったことで、今まで以上に海外投資家の注目を集められたというわけですね。ちなみに海外投資家からよく聞かれる質問はあるのでしょうか?
倉橋:よくあるのが、競合他社に関する質問ですね。もちろん日本でも同じような質問は聞かれますが、その比重は国内の投資家に比べて、グローバルな投資家の方がはるかに大きいです。
その理由は、海外と日本ではスタートアップ企業間の競争の度合いが異なるからだと思います。アメリカや中国と比べると、日本の市場は競争が穏やかなんです。皮肉なことですが、日本人はリスクを避けたがる性格や文化があるため、スタートアップ間の競争も激しくないのかもしれません。
James:それは日本におけるスタートアップ投資の「隠れた真実」のひとつですね。米国市場の勝者だと、超特大のデカコーン(評価額が1兆円を超える非上場企業)かもしれません。でもその会社の競合は20社を超え、競合には元GoogleやStripeマフィアなど本当に頭のいい人たちがいて、競争は本当に激しいですよね。
その一方で、日本ではドリームチームを組むこと、大きな市場機会があること、この2つの条件が満たされていれば、それほど大きな競争にはならないでしょう。日本の市場規模を考えると、競合となるのは1社か2社くらいに限られそうです。さらに言えば、競合と手を組むことも可能です。実際にSmartHRは、同様のサービスを提供する企業とも連携していますよね。倉橋さんが言ったように、アメリカや中国と比較すると、日本の競争環境はとても穏やかだと思います。
「収益性なんて気にするな」海外投資家による、目からウロコのアドバイス
西村:それはとても興味深い考察です。では、これまで海外の投資家とやりとりする中で学んだことはありますか?
倉橋:ありますね。特にマインドセットについては、Coral Podcastシリーズの初回ゲストでもあった、Light Street CapitalのGaurav Guptaさんとの出会いが忘れられません。彼と初めて話したのはシリーズCを計画していた時で、実際にLight Street Capitalにも参加していただきました。
彼と初めて会ったのは私にとって「投資家まわりの日」でした。日本の投資家と何度もミーティングをしていて、最後に会ったのがGauravさんでした。その日は、彼以外のすべての投資家から「数字は素晴らしいが、いつ黒字化するの?」という質問が寄せられていました。でも、Gauravさんが最初に口にしたのは「なぜもっと投資しないの?」という質問でした。続けて彼は「率直に言って、LTV / CAC(※)が高すぎる。めちゃくちゃ高い」って言ったんです。
※LTVはLife Time Value(顧客生涯価値)、CACはCustomer Accuisition Cost(顧客獲得コスト)。その比率である「LTV / CAC」には良いバランスとされる経験則的な数値があり、これが高すぎるということは、まだマーケティングコストを投下してユーザー獲得(成長)を優先すべきという判断になる
James:そう、LTV / CACは9とかでしたね。とんでもない数字でした。
倉橋:そうなんです。彼の指摘は「SmartHRがそんなに効率的に事業を進めていて、なおかつ市場がブルーオーシャンであるなら、もっと投資すべきだ」というものでした。「収益性なんて気にせず、もっと大きくなれ」というのが彼のメッセージでした。
これは私にとって、目からウロコでした。基本的に日本の投資家の多くは、海外の投資家よりも収益性を重要視する傾向があります。実際に私も同じような考えを持っていました。それに対して海外投資家は十分な資金を持っていて、「圧倒的に勝つか、何も残らないか」という環境に慣れています。
だからこそ、目の前の小さなお金にこだわらずに、大きく勝負することを勧めてくれます。この言葉はとても励みになり、私たちが大きく成長を追求するためにギアを入れ替えることができました。あれは本当に大きな転機でした。
ARR1000億円は日本だけでも実現できる、M&Aも視野
James:Gauravさんに感謝ですね。大きな成長を追求するという点では、次のフェーズとして「ARR1000億円」を達成するためにどのように考えていますか?
私は日本市場だけでも、SmartHRは1000億円以上のポテンシャルがあると信じています。というのも、Salesforceは日本だけでARR1000億円を作っているからです。HRは営業と同じようにどの会社にも該当する領域なので、HRだけでもARR1000億円は実現できそうです。
倉橋:私も日本市場だけでARR1000億円は達成できると信じていますが、実現するために2つの大きな戦略があります。
1つは、新しいサービスや価値を追加することです。私たちはまず、人事・労務の手続きを効率化することからスタートしましたが、その副産物として人事データが自動的にクラウド上でアップデートされるようになりました。そして、この人事データを使った人材マネジメント領域に参入しました。
SmartHRに人材マネジメントで活用できる機能を追加したのです。SmartHRには最新の人事データがあるので、お客様にとっても人材マネジメント機能を導入することは簡単です。だからこそ、この事業は順調に伸びていて、弊社の第2の柱になりつつあります。
とはいえ、HRの領域は広いので、まだすべてをカバーしきれていません。Salesforceが顧客管理や営業管理のセールスクラウドから始まり、マーケティングクラウド、カスタマーサクセスクラウド……と拡大していったように、私たちも3本目、4本目の柱を追加していくのがARR1000億円達成のための1つの戦略といえます。
2つ目の戦略は、ネットワーク効果によって、強力なモート(moat:英語で「堀」の意味。城を攻撃から守る堀のイメージから、参入障壁のことを指す)を築くことです。
システムは比較的簡単にコピーされてしまいます。日本でもSmartHRと同じようなサービスがいくつも出てきて、その数はもっと増えるかもしれません。だからこそ、私たちはネットワーク効果を生み出すための投資をしています。競合他社とAPI連携することも、私たちにとって重要な戦略です。
私たちはネットワークを拡大させながら、アプリストアも作っています。Salesforceのマーケットプレイス「AppExchange」と同じように、他のシステムプロバイダーや独立系システムベンダーも、SmartHR上で簡単にアプリを開発・発売できる仕組みです。私たちはアプリストアで直接収益を上げることは考えていません。それよりも、ここから得られるネットワーク効果に焦点を当てています。
幸いなことに、私たちの市場シェアは半分以上を占めています。だからこそ、外部のシステムプロバイダーは、SmartHRと接続する意味が大きいわけです。近い将来、こうしたネットワークが私たちにとって、大きなモートになるはずです。
James:外からSmartHRを見たら想像もつかなかったような拡張が、人事データによって可能になりそうですよね。例えば、従業員が結婚や出産などのライフイベントを迎えるタイミングで、保険や金融サービスを提供できるかもしれません。そうなると、人事データをもとに金融商品を販売する「隠れたFinTech企業」とも言えそうです。
私がベンチマークとして見ている米国のRipplingは多品種戦略をとっていて、さまざまなカテゴリーに進出しています。今後3年から5年の間に、SmartHRにとって大きなチャンスがあるのはそこだと思います。
倉橋:まったくその通りだと思います。私たちは、B2B2E(企業対企業対従業員)の市場に進出することも検討しています。
西村:今後は、競合他社のM&Aも選択肢のひとつになるのでしょうか?
倉橋:競合他社については、SmartHRをコピーしたような会社には真っ向勝負で勝てる自信があります。その一方で、従業員の福利厚生やFinTechなどのHRの隣接領域では、私たちがカバーしきれていない分野で、なおかつSmartHRと相性の良いスタートアップも数多く存在しています。そうしたスタートアップのM&Aを通して、より付加価値の高いプラットフォームを作ることについてはオープンに考えています。
前CEOの宮田さんは直感型、新CEOの芹澤さんは熟考型?
James:2021年12月には、創業者でCEOだった宮田昇始さんが代表取締役を退任し、これまでCTOだった芹澤雅人さんが2022年1月に新CEOに就任することを発表しました。2人は異なるタイプのリーダーだと思いますが、倉橋さんから見て、2人の違いはどこにあると思いますか。
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倉橋:個人的には、2人にそれほど大きな違いはないと思います。まず、リーダーシップのスタイルという点では、とてもよく似ています。どちらもマイクロマネジメントはせず、仕事を人に任せるのがうまいんです。また、カルチャーを重視する点も似ています。
COOの立場として、ビジネスサイドの運営をすべて任されていることも社長交代前後で変わりはありません。宮田さんは今でも取締役としてSmartHRに残ってくれているので、取締役会も大きく変わったことはないですね。
もちろん、小さな違いはあります。そのひとつを挙げると、宮田さんはどちらかというと天才肌で、新しい課題や可能性に直面すると直感で理解するタイプ。それに対して芹澤さんは秀才肌で飲み込みが早く、ビジネスや財務、その他の面でも新しいことを学び続けるタイプと言えます。
James:宮田さんは直感で動く人、芹澤さんは熟考して動く人、という感じなんですね。この違いは、会社のフェーズによく合致していると思います。シード期は会社運営の参考になるものが少ないので直感を信じるしかないケースがありますが、組織が大きくなると直感で動くのは害になることもありそうです。今の段階では、直感で判断するエッセンスを残しつつ、芹澤さんのスタイルを実現していくのは理に適っていると思います。
倉橋:宮田さんは取締役ファウンダーとして社内に残りつつ、彼の直感に見合ったFinTech関連の新規事業に取り組んでいます。そこにも大きく期待していますね。
James:私も同感です。最後にポッドキャストのリスナーに伝えたいことはありますか?
倉橋:日本は世界第3位の経済大国で、スタートアップの競争は米国や中国に比べると比較的穏やかです。また、日本のSaaS普及率は米国に比べて5年ほど遅れていますが、だからこそ成長の余地が大きい市場とも言えます。これからもHR SaaSのパイオニアとして市場の拡大を牽引していきたいと思います。
James:ありがとうございました!